#597 月の病

SF

月面探査船が持ち帰ったのは、輝かしい成果だけではなかった。

船長だった男が、最初に見せた異変は、長時間「月を見ている」――それだけのことだった。

しかし彼の体内では小さな存在が蠢き、不可逆な変化をもたらしていた。

それが、地球全体を静かな絶望へと突き落とすパンデミックの始まりだとは、そのとき誰も気づいてはいなかった。

その未知の細菌は、月の裏側に潜んでいた古代の呪いのような存在だと言われている。

空気感染、接触感染、そして何よりも「光」を通じた伝播。

感染力は爆発的ではなかったが、発見の遅れと月光を介した特異な伝播によって、人類はその静かな未知の病にじわじわと侵されていった。

感染した者の肌は、数日のうちに陶器のように白く透き通り、瞳からは色が失われていく。

月病に侵された者は、次第に食事を拒み、気力も失われ、やがてただ夜が来るのを静かに待つようになる。

そして月が昇ると、吸い寄せられるように外へ出て、一晩中空を見上げ続けるのだ。

月から持ち込まれた病気、患者が月を眺めはじめるという症状から、人々はそれを「月病」と呼ぶようになった。

月病は瞬く間に世界中へ広がり、都市の灯りは一つ、また一つと消えていった。

初期の段階では、医療機関はこれを精神疾患の一種だと考えていた。

しかし、感染者から採取された新種の細菌が、月光の波長に反応して増殖することが判明した。

すぐさま各国で研究チームが立ち上がりワクチンの開発を始めた。

研究主任は、スクリーンに映ったゲノムマップを指す。

「外膜タンパクBを標的にした候補は全滅です。抗体価は上がっていますが、中和能がありません。感染防御との相関も出ない」

「莢膜多糖は?」

「だめです。ヒトの神経細胞表面の糖鎖と相同性が高すぎる。免疫を強く誘導すれば、自己免疫のリスクが跳ね上がります」

別の研究員が、沈んだ声で言った。

「第7世代株では、昨日まで発現していた抗原が消えています。相変異です。ワクチンが標的にした目印だけを、まるで脱ぎ捨てるように変えている」

ワクチンの開発が絶望的な中、罹患者たちはもはや、地球の生物としての機能を失いつつあった。

私の隣に住んでいた老夫婦も、ある晩から庭に立ち尽くすようになった。その頃、月病はかなり身近なものになりつつあった。

声をかけても返事はなく、ただ見開かれた瞳に満月が映り込んでいるだけだ。

彼らの肌からは微かな冷気が漂い、周囲の空気さえも凍りつかせるようだった。まるで小さな月がそこにあるように感じられた。

夜の街を支配するのは、街灯の下で彫像のように固まった数百万の人間の群れだ。

彼らは瞬き一つせず、ただ天に浮かぶあの冷徹な球体を見つめている。

時折、群れの中から「ヒュウ」という、笛のような音が漏れることがある。

それは彼らの喉が変質し、月へ向かって音信を送っているかのように聞こえた。

私は部屋のカーテンを閉め切り、ガムテープで隙間を塞いで、暗闇の中に身を潜めた。

テレビもネットも、すでに機能しなくなってから久しい。この段階にくると、感染力が高くないという事実は逆に生存者に強い恐怖を与える要因となった。

最後に聞いたラジオのニュースでは、月の光が細菌を活性化させ、宿主の肉体を別の何かに作り変えていると言っていた。

作り変えられた彼らが、最終的にどうなるのかを知る者はまだ誰もいない。生存者たちはいずれそれを見ることになるのだろう。

だが、夜を重ねるごとに、外から聞こえるあの奇妙な「音」は大きくなっている。

「ヒュウ」

「ヒュウ」

今夜、ついに私は耐えきれず、カーテンの隙間から外をのぞいてしまった。

そこには、今まで見たこともないほど巨大で、蒼白く輝く満月が浮いていた。

月の表面に、まるで無数の「瞳」があるかのような錯覚に陥る。

その瞬間、私の右腕の皮膚が、ピリピリと音を立てて白く変色し始めた。

血管の中に、冷たい液体が流れ込んでくるような感覚が広がる。

私の意志とは無関係に、指先が窓の鍵へと伸びていく。

頭の芯が、あの蒼白い光に溶かされて、思考が白濁していくのが分かった。

「おいで」という声が、耳ではなく脳の奥底で直接響いた。

それは、月から届く、慈愛に満ちた死の誘いだった。私は窓を開け、夜の冷気の中に足を踏み出した。

庭には、すでに数十人の先客が、整然と列を成して空を見上げている。

彼らの瞳には、もはや意思の光は宿っていない。

私もまた、それに加わり、ゆっくりと顎を上げた。

視界が月の光だけで満たされ、重力が消えていくような浮遊感に包まれる。

もう、怖いとは思わなかった。

ただ、あの美しい銀色の世界の一部になれることが、誇らしくさえ感じられた。

地球という星は、これから長い年月をかけて、巨大な墓標へと変わっていくのだろう。

空を見上げる無数の動かない肉体たちが、銀色に輝く森のように世界を埋め尽くす。私たちはこうして、冷たい光の中で永遠に待ち続けるのだ。

「ヒュウ」

視界の端で、私の隣に立った少女の肌が、パラパラと剥がれ落ちた。

その下から現れたのは、肉でも骨でもなく、水晶のような透明な構造物だった。

「ヒュウ」

さらに隣にいた男性の肌も剥がれ落ち、透明になった。

ああ、そうか。月面の砂、あれはこれなのだ。やがてこの肉体も粉々に砕けて、砂になるのだ。

それはとてもうつくしい夢のような幻想だった。

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