市の外れにひっそりと佇むその洋館は、明治時代に建てられた実業家の別邸だったという。
現在は市の資料館として公開されているが、訪れる人はまばらだ。赤レンガの壁には蔦が絡まり、窓ガラスは当時の手吹きガラス特有の歪みを湛えている。
私と友人の結衣は、春休みの退屈しのぎに、この場所に伝わる奇妙な噂を検証しに来ていた。
「特定の順番で館内の部屋を巡ると、本来存在しないはずのティールームにたどり着く」
そんな、まるでゲームの裏コマンドのような話だ。資料館のパンフレットによれば、一般公開されている部屋は全部で十二室。応接間、図書室、寝室、食堂……。
順番の組み合わせは天文学的な数になる。闇雲に歩き回っても、幻のティールームにたどり着くことはないだろう。
「きっと、どこかにヒントがあるはずなんだよ」
結衣は手帳を広げ、熱心に館内の地図を書き写していた。まるで探偵みたいだ。
私たちはまず、一階のロビーから探索を始めた。床のタイル、壁の絵画、カーテンの刺繍。何か数字や順序を示唆するものはないか。
職員が「勉強熱心だね」と感心した様子で、私たちの横を通り過ぎていく。
一時間ほど経った頃、二階の「夫人の寝室」で、結衣が声を上げた。
「見て、これ。壁紙の模様が少し変じゃない?」
バラの蕾が描かれた壁紙だが、よく見ると、特定のバラだけが完全に開いている。
その開いた花を線で結ぶと、奇妙な多角形が浮かび上がった。さらに、各部屋の入り口に飾られた小さなボタニカルアートに目を向けると、私たちは花の種類ではなく、茎の曲がり方に「数字」が隠されていることに気づいた。
結衣が丁寧に手帳にそれらを書き留めていく。
三番、七番、二番、十番、一番、十二番、五番。
「間違いない。これだわ」
私たちは確信を持って、館内図でその数字に対応する部屋を順番にめぐり始めた。
最初は半信半疑だった。しかし、五番目の「サンルーム」を出て、最後の一室に向かおうとした時、空気が変わった。
古い建物特有の、埃とワックスが混じった匂いが消え、代わりに、甘く芳醇なアールグレイの香りが廊下に満ち始めたのだ。
突き当たりには、本来なら物置のはずの重い木製の扉があった。本来は鍵がかかっているはずのその扉が、今は数センチだけ、誘うように開いている。
「……行ってみよう」
結衣と顔を見合わせ、私たちはその扉を押し開けた。
そこは、これまでの古びた展示室とは全く異なる空間だった。
高い天井からはクリスタルのシャンデリアが吊り下げられ、柔らかな午後の光が、白いレースのカーテン越しに差し込んでいる。テーブルには純白のクロスがかけられ、磨き上げられた銀のティーセットが並んでいた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お茶の準備ができております」
燕尾服を着た初老の紳士が、音もなく近づいてきた。その物腰はあまりに自然で、コスプレのようには感じられない。
「あの、ここは……」
「おかけください」
促されるまま、私たちは窓際の席に座った。出された紅茶は驚くほどおいしく、添えられたスコーンは口の中でやさしくほどけた。
結衣と私は、夢見心地でこの時間を堪能していた。
しかし、ふと気づくと、窓の外の景色がおかしい。
洋館の周りには、市街地が広がっているはずだ。喧騒や車の走行音など、常に何らかの音で満ちている。
だが、窓の外に見えるのは、どこまでも続く深い霧と、見たこともないような巨大なシダ植物が茂る庭園だった。太陽は沈みかけているが、その位置から一向に動こうとしない。
「ねえ、結衣。そろそろ戻らない?」
私の声に、結衣は空になったカップを見つめたまま答えた。
「戻るって、どこに? 私、ここがすごく気に入っちゃった」
彼女の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
不安に駆られた私は、立ち上がって執事の男性を呼ぼうとした。しかし、先ほどまで近くにいたはずの彼の姿はどこにもない。
もしかしてここは、入ってはいけない場所だったのかもしれない。
私は結衣の手を引いて、無理やり部屋を出た。
扉を閉めた瞬間、香ばしい紅茶の匂いは消え失せ、代わりに鼻を突いたのはカビ臭い空気と古い木の匂いだった。
私たちは、元の「物置」の前に立っていた。扉には重々しい南京錠がかかっており、とても人が出入りできる状態ではない。
「……何だったの、今の」
結衣は呆然としていたが、正気に戻ったようだ。私たちは逃げるように資料館を後にした。
受付の職員に会釈をして外に出ると、夕闇が迫っていた。
「驚いたね。本当にあるとは思わなかった」
結衣がまだ信じられないというように、つぶやいた。
それから「あれ? 何だろう」とポケットを探る。結衣がポケットから取り出したのは、一枚の古びた紙切れだった。
そこには、日付が記されている。
『一九二六年 三月五日』
ちょうど百年前の日付。
さらに、裏面には美しい筆致でこう書かれていた。
「お嬢様方のお帰りをずっとお待ちしております」
なんとなく嫌な予感がして、自分もポケットを確認すると、そこには銀のティースプーンが入っていた。
私たちは顔を見合わせた。
春の冷たい風が吹き抜け、背後の洋館は、ただの静かな死骸のように沈黙している。
手の中にあるティースプーンは、夕陽を浴びて鈍く光っていた。
私たちは、自分たちはあの部屋と縁を持ってしまった。いつかこのスプーンを返しに行かねばならないのだろう。
結衣も同じことに思い至った様子で青ざめている。
あのティールームは、部屋を巡る順序によって現れるのではない。百年の時を超えて、この館が「何か」を求めているから現れるのだ。
帰り道、私は結衣の手を強く握りしめた。結衣も私の手を握り返してきた。
このティースプーンを無視することはできないということは直感していた。私たちはまたあの部屋を訪れることになるのだろう。次は戻ってこられないのかもしれない。


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