市立図書館で働きはじめて三日目、返却ポストの中から、私は一冊の古い短編集を手にしていた。
背表紙は日に焼け、表紙もびっくりするほどぼろぼろだ。
随分と古い本だなと、パラパラとめくってみた。すると、頁の間から薄い和紙に包まれた麦の穂が一本、はらりと落ちる。
栞にしては変わっている。
穂先だけが赤い糸で結ばれ、和紙には小さく、古い字で何か書いてある。
なんとなくその短編集を読んでみようかと、もう一度表紙に指をかけた瞬間、背後から主任の冬川に手首をつかまれた。
「はさまっているものを、勝手に抜いてはいけません。その本も読むのは待ってください」
いつも柔和な雰囲気の人なのに、その声はやけに硬かった。
冬川は麦の穂を白い封筒に入れ、短編集を閲覧禁止の棚へ片付けてしまった。
「利用者の忘れ物ですか」と聞くと、彼は少し考えてから言った。
「これは錠前です。抜けてしまいました」
その日の閉館後、私は冬川に地下書庫へ呼ばれ、ようやく図書館の裏側を知ることになる。
「深く本に関わる者しか知らないことがあります。これから話すことを無闇に人に話さないように」
その内容はとても信じられないような話だった。
本は何度も読まれすぎると、たまに意思を持つものが出てくるのだという。
物に魂が宿るという付喪神の、本バージョンらしい。
開かれたい、読まれたい、語りたい。
図書館の本や古本は、人の手に渡るたび、期待や記憶や読み手の息づかいを身の内に溜めこんでいく。
力の強い本は頁の中へ人を招き入れてしまうのだという。
「世界の行方不明者の何パーセントかは、事故でも家出でもありません。本の中にいます」
冬川はそう言って、書庫の奥の鉄扉を開けた。
向こうには、普通の棚ではなく、鎖で巻かれた書架が並んでいた。
それぞれの本には、押し花、切符、鈴のついた糸、古い硬貨、鳥の羽、乳歯みたいな白い石がはさまっている。
「封じ方は司書官ごとに違います――『特殊司書官』というのを聞いたことはありますか」
私は首を振った。
「知らない人の方が普通です。こういう風に本を封じることを仕事にしています」
その時、上の階で何かが落ちる音がした。続いて、書棚全体が波打つような重たい音がする。
冬川が顔色を変えた。
「閉架一号室です」
駆けつけると、郷土資料の棚の前に、さっきの短編集が開いて落ちていた。
「これ、さっきの……」
頁は風もないのにめくれつづけ、文字が行からあふれて床へこぼれている。
黒いインクは虫の群れみたいに這い、棚をのぼっていた。――かと思うと、その文字は雨のように天井から降り注ぐ。
その中で、中学生くらいの男の子が泣きそうな顔で立ち尽くしていた。
本に夢中になって閉館に気づかなかったんだろうか。
彼の足首には、黒い帯のようなものが絡みついていた。よく見ると、それは「文章」だった。
(そして少年は帰らなかった。そして少年は帰らなかった)
活字の帯が、ゆっくり彼を短編集の方へと引っ張って行く。
冬川は胸ポケットから、薄い鍵の形をしたものを取り出した。金属製の洒落た栞のように見える。
その鍵には青い糸が巻かれ、糸の先には小さな鈴がついている。さっき見た本にも、いくつか同じものがはさまっていた気がする。
彼は短編集の方へその鍵を向け、低い声で何かを読みあげた。何を言っているのかはわからない。真言のようにも聞こえる。
突如、短編集の頁の奥から、知らない町の夕焼けがあふれだした。
残照、電柱、影だけの犬、濡れたアスファルト。
風景そのものが、部屋を飲み込もうとするかのように広がっていく。
男の子の片足が、もうその町へと沈みかけていた。
「業が深い……」
冬川が唇を噛む。
私は思い出していた。あの麦の穂がはさまっていた頁のことだ。思わず、言葉が口をついて出た。
「不思議なことに、その館の誰もが赤い靴下をはいていました」
夕焼けの風景がわずかに薄くなり、短編集がパタパタパタッと勢いよく頁を変えた。
「そこか!」
冬川がその頁に鍵をはさむ。チリンと鈴が鳴った。
男の子の足首を縛っていた文章がほどけ、夕焼けの町の景色が本の中へと吸い込まれていく。
冬川は間髪入れず本を閉じた。そして短編集は、ようやく眠るみたいに静かになった。
男の子は泣きながら床にへたりこむ。
「……本の中に人がいた」
震える声でそう言った。
「ずっと座ってる人が何人も」
冬川はうなずきも否定もしなかった。
ただ、閉じた本を布で包みながら、小さく答えた。
「今回みたいに助けられることもあります。でも助けられないこともあります。本にはさまっているものを無闇に抜かないように」
翌朝、図書館は何事もなかったように開館した。利用者たちは静かに本を借りていく。
あの後、例の短編集は鉄扉の奥にしまわれた。冬川は多くを語らなかった。だから私もまだあれが何だったのか、よく分かってはいない。
ただ、返却本にレシートでも押し葉でも、何かものがはさまっていたら、前よりずっと丁寧に扱うようになった。
栞に見えても、ただの栞ではないものが存在する。誰かが途中で読むのをやめた印ではなく、何かを封じている錠前だ。
時々、本を開く前に、頁のあいだから乾いた羽や古い切符が落ちることがあるかもしれない。
そんな時はそれを抜かないでほしい。
もしかしたらその一片は、どこかの特殊司書官がつけた何かの印かもしれないし、すでに物語を閉じた鍵である場合もある。もしくはまだ帰ってきていない誰かを救う、唯一の手がかりになる可能性だってあるんだ。


コメント