#602 つまずく理由

ちいさな物語

夏の気配が混じり始めた午後の日差しを浴びながら、私は駅前の広場にあるベンチに腰を下ろした。

手元には、コンビニで買ったばかりの少し甘すぎるカフェオレがある。

午前中の会議で削り取られた精神を修復するには、このくらいの糖分がちょうどいい。

ふと目を上げると、広場の中央、噴水へと続く道の一角で、一人のサラリーマンが派手に体勢を崩した。

靴の先が何かに引っかかったような動きだったが、そこには段差もなければ、落ちているゴミ一つなかった。

彼はきょろきょろと足元を見回し、バツの悪そうな顔をして足早に去っていった。

それから数分の間に、さらに二人の人間が、全く同じ場所でつまずいた。

一人はスマートフォンの画面に夢中な大学生で、もう一人は買い物袋を下げた主婦だった。

二人とも、まるで目に見えない小さな障害物がそこにあるかのように、つま先をひっかけ前のめりになった。

あまりに頻繁に起こるその現象が気になり、私はベンチから立ち上がった。

その場所まで歩いていき、タイルの状態を念入りに確認してみる。

しかし、どこをどう見ても、タイルは浮き上がりも破損もなかった。

手で触れてみても、そこは完全にフラットで、滑りやすいわけでもなさそうだった。

不思議に思いながらベンチに戻ると、いつの間にか白衣を着た年配の女性が座っていた。

「気づきましたか? あの奇妙な地点に」

彼女は近くにある科学研究所の研究員だと名乗り、眼鏡の奥の鋭い瞳をその場所に向けた。

「あれは、タイルの配色による視覚的錯覚の問題なんですよ」

彼女の説明によれば、特定の色調と並びが原因で、歩行者の脳が平衡感覚に関わる情報を誤って処理してしまうのだという。

私はその理論的な説明に、なるほどと深く納得した。

女性は「では、私は仕事に戻りますね」と言って立ち去っていった。

科学的な根拠を聞いて安心したのも束の間、今度は派手な数珠を首にかけた若い男性が近づいてきた。

彼は「あの場所で転ぶ理由はそれだけではないんです」と、私に耳打ちするように囁いた。

「すみません。お話が聞こえてしまったので、つい。あそこにはね、この土地に縛り付けられた強い地縛霊がいるんですよ」

彼は霊能者だそうで、この場所は土地の歴史による執念が渦巻き、さまざまな霊が集まっているのだという。

「霊は通りすがる人の足をつかんで遊んでいるんです。霊感が少しでもある人は、その干渉に反応してつまずいてしまうんです」

私は霊などまったく信じていないが、彼の言葉には妙に人を納得させる力があった。確かに全員が転ぶわけではない。一部の人だけだった。特殊な何かを感じ取れる人がつまずくと聞くと、あり得そうな気がした。

男性は「ここを通る際はお気をつけて」と笑みを浮かべ、人混みの中に消えていった。

そこへよれよれのツイードジャケットを着た、物理学教授を自称する男性が現れた。

彼は、これまでの二人とは全く次元の違う話を始めた。

「あそこは、多次元宇宙の重なりが最も薄くなっている特異点なのです」

超ひも理論だの、量子のもつれだの、私の理解をはるかに超えた単語が次々と彼の口から飛び出した。

「あの地点だけ重力の伝播に微細なラグが生じている。つまり、彼らはあの一瞬だけ、別の宇宙の重力に足を引かれたのですよ」

彼の話はあまりに壮大すぎて、もう何が正解なのか、私には全く判別がつかなくなってしまった。

結局、あの場所は視覚の罠なのか、霊の悪戯なのか、あるいは宇宙の裂け目なのか。

ひとつ確かなのは、誰もが自分なりの「正しい理由」を持って、あのつまずきを解釈しようとしていることだった。

私は飲み終えたカフェオレの容器をゴミ箱に捨て、大きく伸びをした。

そのとき、向こうから小学生くらいの女の子が走ってきた。

彼女は例の場所の手前でぴたりと止まり、そこだけを避けるように大きく回りこむ。そして何事もなかったようにまた駆けていった。

私は思わず「どうしてそこを避けたの?」と聞きたくなったが、すでに女の子の姿は小さくなっていた。

現実の世界には、正解がいくつあっても足りない不思議が、案外そこら中に転がっているのかもしれない。

そう思うと、少しだけ足元がふわふわとして、頼りないような心地がした。

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