#606 部屋にいる人

ちいさな物語

四歳の息子、陽太が保育園から一枚の画用紙を持ち帰ってきた。

白い紙の真ん中には、クレヨンで描かれた二人の人物が手をつないで笑っている。

「上手だね、陽太。これ、ママと陽太?」

私が尋ねると、陽太は誇らしげに頷いて「うん!」と元気よく答えた。

離婚して晴れてシングルマザーとしてこの街に移り住み、ようやく生活が落ち着いてきた頃のことだった。

その夜、陽太はリビングのテーブルで熱心にその絵の続きを描いていた。

様子を見に行くと、二人の周りに新しく二人の人物が描き足されている。

それは眼鏡をかけたおじいちゃんと、ふっくらしたおばあちゃんだった。

「じじとばばを描いたの? 陽太はやさしいね」

遠くに住む私の両親を思い出したのだろうと思い、私は陽太の頭をやさしく撫でた。仕事の関係でしばらく実家に戻れそうにないが、そのうち陽太と実家に帰りたいと思っていた。

陽太は無邪気に笑いながら、またクレヨンを動かし始めた。

しかし、翌日も陽太は保育園から戻るなり「つづきをかく!」と、同じ絵に人物を描き足している。

「まだ描きたい人がいるのかな?」

もしかして離婚した「あの人」だろうか。胸の奥に引っかかるものを感じながらも、陽太が絵に夢中になっている間にと、次から次へと家事をこなした。

「陽太、もう寝る時間だよ。あれ? それは誰を描いているの?」

のぞき込んだ絵には、すでに三人の人間が描き込まれていた。「あの人」らしき姿はない。「仕事だ」と、言ってとほとんど家に帰らず、陽太も懐いていなかったのだから、それはそうかもしれないが――

「この人たちはだあれ?」

「お部屋にいる人だよ」

陽太がさらりと言った言葉に、私の背筋に冷たいものが走った。

「えー、誰かなあ。ママの知ってる人?」

陽太は答えず、ただ黙って窓の外にあるベランダを指差した。

「そこの人!」

夜の闇が張り付いた窓には、私のぽかんとした顔が映っているだけだった。

ふと、このマンションを契約した時のことを思い出した。

築浅で駅からも近いのに、家賃が相場の半分以下という破格の条件だった。

不動産業者は「以前の方が急に退去されたので、早く埋めたくて」と言葉を濁していた。

その時はラッキーだとしか思わなかったが、今思えば不自然なほど安い。

まさか、そんな非科学的な話は信じられない。

また陽太の絵を見ると、描き足された三人の人物はみんなどこかがおかしかった。

やけに首が長かったり、腕が変に曲がっていたり……。

子供の描くものなんだからそんなこともあるかもしれないが、私とじじとばばはきちんと人間の形をしている。

陽太は絵が上手いと保育園でもよくほめられる。こんな形に人間を描くなんて、少し変だ。

次の日、陽太の絵にはさらに人物が描き足されていた。もう画用紙はいっぱいになりつつあった。それも奇妙な形をした人間ばかり……。

「このお部屋にそんなにたくさんいるのかな?」

思わず声がうわずった。

「いるよ!」

ぞっと悪寒が走った。

「陽太、もうこの画用紙、描くところなくなっちゃったから、新しいのに描こうか」

私が絵に手を伸ばすと、陽太は「ヤダッ」と、画用紙を引き寄せた。

「まだ玄関にいる人たちが描けてないもん」

「玄関……?」

ふっとそちらの方を見る。薄暗い玄関にはもちろん何もない。

ガタッと玄関の方で物音が響いた。慌てて見に行ったが、靴箱のラックに掛けてあった鍵が落ちているだけだった。

翌日、ゴミを出しに出たとき、近所の人たちがひそひそと話しているのが聞こえてきた。

「また出ていかれるんじゃないかしら」

「もう何人も――でしょ? 小さい子がいるし」

「――って、告知義務っていうの?」

「でもあそこは別に――」

なんとなく自分の部屋のことを言われているような気がして、私はそっと部屋に戻った。

その日の夕方、保育園の先生に声をかけられた。

「陽太くん、今日もたくさん絵を描いていましたよ」

見せられた紙には、クラスの子供たちが画用紙いっぱいに描かれていた。やはり足が折れ曲がっていたり、頭が変形していたりする。

「想像力が豊かですね」

先生は特に違和感を持っていないようだ。

帰り道、陽太はずっと黙っていた。いつもなら給食や友達の話をするのに、私の手を強く握って離さない。

「おうち、嫌?」

「おうちはいいよ」

「じゃあ、何が嫌なの?」

「いっぱいついてくる」

私はそれ以上聞けなかった。

翌日、管理会社に電話をした。

「この部屋の前の入居者について、聞きたいことがあるんですが」

担当者の声が、わずかに硬くなった。

「それはちょっと――個人情報になりますので」

「事故物件ではないんですよね?」

沈黙があった。

「室内で亡くなられた方がいる、という事実は確認されておりません」

室内で――その言い方だけが、耳に残った。“室外”で、何かあったのだろうか。

その晩、隣の部屋の老婦人とエレベーターで一緒になった。陽太を見るなり、彼女は言った。

「絵、描くの好きなのね」

私は息をのんだ。

「どうして、それを」

「子供は見えるものをそのまま描くから。描いてほしい人が集まってくるのね」

老婦人は階数表示を見上げたまま言った。

「前のお子さんも、よく描いていたわ」

エレベーターが止まる。扉が開くと、うちの玄関前の照明だけが少し暗く感じた。

降り際、老婦人は小さくつぶやいた。

「もう遅かったかしら」

その夜、私は画用紙を隠した。捨てたわけではない。クローゼットの上段、陽太の手が届かないところに置いただけだ。

深夜、かりかり、という音で目が覚めた。リビングからだった。クレヨンが紙をこするような音。陽太が絵を描いている。画用紙いっぱいに何人も何人も。

「陽太! だめ!」

クレヨンを取り上げようと、手を伸ばしたら、ものすごい力でふり払われる。子供の力とは思えない。

「ママ、やめて。邪魔をするなら外で死んで。ここで死んだら次の人が来ないでしょ」

陽太の声が――変だった。低い男の声。

「外で、死んで」

私は寝間着のまま玄関へ向かった。

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