その水差しは、駅裏の薄暗い古道具屋の棚に、ぽつんと置かれていた。釉薬の剥げた陶器に、幾何学的な模様。ひび割れた注ぎ口が、妙に気になった。
「使えるよ。一滴で、なんでも願いが叶う」
店主はそれだけ言って微笑んだ。どういう意味なのかよくわからなかったが、詫びた感じが気に入ったので購入し、棚の上に置き数日が過ぎた。
ある朝、何気なく中を覗くと、中に水が少しだけ揺れていた。一滴で、なんでも叶うという店主の言葉を思い出し、冗談のつもりで「今日、雨が降ったらいいな」と呟きながら、庭の土に一滴垂らしてみた。
その十分後、晴天だった空が急に曇り出し、静かに雨が降り始めた。偶然にしては出来すぎている。もしかして本当に願いが叶うのだろうか。
翌日は「落とした鍵が見つかれば」と願って一滴垂らすと、玄関マットの下から鍵が現れた。
一滴につき、ひとつの願い。
どうやら本物らしいと気づいた俺は、次第に大胆な願いを試すようになった。
「昇進したい」「宝くじに当たりたい」「健康でありたい」と、次々と願ってみた。その願いはすべて叶った。
世界が自分中心に回り出したような気さえした。だが、変化は静かにやってきた。
駅前のカフェは閉店し、公園のブランコは錆びて動かなくなった。子どもの笑い声が消え、隣人も顔を見せなくなった。知らぬ間に、世界が薄く、静かになってゆく。
日々の自分のよろこびになっていたものが、少しずつなくなっている気がした。
ある夜、寝室の窓から外を見下ろすと、町の灯りがほとんど消えていた。寝室からの夜景は特に気に入っていたのに、どういうことなのか。
「もしかしてこれが願いの代償なのか?」
そう気づいたとき、水差しの中に残る水は、あとわずかだった。俺は静かに最後の願いを口にした。
「すべてを元に戻してくれ」
水差しの最後の一滴が土に落ちた瞬間、世界がゆっくりと回転するように反転し、記憶が巻き戻るような感覚が走った。
気づくと、俺は古道具屋の前に立っていた。棚の上には、あの水差しが、またぽつんと置かれている。
「使えるよ。一滴で、なんでも願いが叶う」
店主の声に、俺は微笑み、ゆっくりと首を横に振った。今度こそ、願わないことが、俺の願いだった。
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