#208 約束の庭

ちいさな物語

午後三時、町外れの公園は、夏の匂いに包まれていた。

僕は汗ばむ手のひらでサッカーボールを拾い上げ、適当に芝生に向かって蹴り戻した――つもりだった。乾いた音とともに、ボールは明後日の方向に飛んでゆく。

「取ってこいよ!」
友達が冗談まじりに叫ぶ。

「はいはい」

僕はのんびりと歩き出した。
ボールは、公園の端にある植え込みを越え、その向こうの小道へと消えていた。

植え込みを抜けると、そこには細い裏道が伸びていた。アスファルトは割れ、雑草が生い茂り、まるで何年も人が通っていないようだった。ボールの白い影が、さらに先へと転がっていく。

「こんなとこ、あったっけ?」

首を傾げつつも、僕はボールを追った。

しばらく歩くと、道は急に開けた。そこには、小さな庭園が広がっている。

白い砂利、よく手入れされた低い垣根、色とりどりの花。

だが、不思議なことに、庭の中央には、何もない「空白」がぽっかりと開いていた。ただの土の地面。花も石もない、奇妙な円形の空き地。その中心に、ボールが落ちていた。

ボールを拾おうと、地面に手を伸ばした瞬間だった。

「――待って」

背後から声がした。

振り向くと、そこには小さな女の子が立っていた。
白いワンピースに、麦わら帽子。年の頃は七つか八つくらい。

「そこ、入っちゃだめだよ」

声は柔らかいけれど、どこか切実だった。

「え、でもボール……」

「だめ。ここは、まだ『ひらいてない』から」

女の子はそう言うと、膝を折って、地面に指でなにかを描き始めた。円の中に、細かな模様が浮かび上がる。まるで古代文字のような、不思議な文様だった。

僕は戸惑った。小さい子の遊びに付き合っている時間はない。早くボールを持って帰らないと、友達が心配する。

「なあ、ここ、どこ?」

「おにいちゃんが来たのは、まちがいだよ」

女の子は寂しそうに微笑んだ。

「ここは、まってる人だけが来られる場所だから」

「待ってる人?」

「うん。わすれられた人とか、わすれた約束とか、そういうの」

僕は首をかしげた。何を言っているのか意味がわからない。しかし辺りは見覚えのない庭で、自分が間違いで来てしまったというところだけは確からしい。

気づくと、空気が変わっていた。空は赤く染まり、花々はゆっくりと色を失っていく。庭全体が、夕焼けの中に沈んでいくようだった。女の子は、小さな手でボールを拾い上げ、僕に差し出した。

「かえしてあげる。でも、にどと、もどれないかもしれないよ」

「え……?」

「もどるためには、わすれられた人、わすれられた約束をつくるしかない」

「つくる?」

彼女はにこりと笑った。

「ここは、そういう場所だから」

そこからの記憶はなかった。

僕はボールを抱えたまま公園の植え込みの前に立っていた。

「早くしろ〜」

「何やってんだよ」

友達の笑いを含んだヤジが飛んでくる。

なぜだかわからない。
でも、胸の奥がぎゅっと痛んだ。あの庭に、何か大切なものを忘れてきたような気がしていた。

「さようなら、おにいちゃん」

彼女の声が、遠ざかっていく。

忘れられた人、忘れられた約束――それを待っている人。あの子と何かとても大切な約束をしたような気がする。

後日、あの道を探したが、どこにもなかった。植え込みの向こうには、ただフェンスがあるだけだ。一体どうやって約束を果たせばいいのだろうか。

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