探偵・御堂零士と初めて会ったのは、僕が働くカフェ「雨宿り」でのことだった。
その日も静かな午後だった。雨が降り出したので、僕は表の看板を引っ込めようとしていた。そこに、濡れたトレンチコートを着た男がふらりと現れた。
「温かい紅茶を」
声も低く、仕草も静か。まるで推理小説から抜け出してきたような人物だった。
彼はすぐに常連になった。週に一、二度、午後三時頃に来て紅茶を飲む。客も少なく、店にはちょうどいい静けさがあった。だが、それが「始まり」だった。
最初の事件は、毒殺だった。
彼が来たその日、向かいのビルでOLが倒れた。みんなで昼食後に飲んでいたコーヒーに毒が混入されていたらしい。同じコーヒーメーカーで作ったコーヒーを飲んでいたのに、倒れたのはそのOLだけだ。
警察が慌ただしく動く中、彼はカフェの窓越しにテーブルに置かれたコーヒーカップの角度を見て、「左利きの同僚が犯人です」と静かにつぶやいてため息をついた。
後日、事件の犯人は彼の言う通りだったと判明する。
僕は震えた。ただの偶然だと思っていた。けれど、事件はそれで終わらなかった。
次は首吊り死体。
店の裏路地で、ビル清掃員が首を吊っていた。警察は自殺と判断したが、御堂はすぐに「これは偽装です」と断言。雨の跳ね方、靴底の泥の付き方、それだけで彼は真相を暴いた。
だが僕には、もっと別の問題があった。
事件が起きるたびに、僕は目撃者として警察に呼ばれ、仕事を休み、睡眠不足に陥り、恋人には「いつも『事件が起きているから会えない』なんて、おかしい。浮気をしているんでしょう」と、一方的に別れを告げられた。
事件解決の主役は探偵だが、巻き込まれて滑稽な役回りをするのは、いつも僕だった。
やがて、僕はひとつの結論にたどり着く。
――この男と縁を切らない限り、僕の人生は終わる。
最初は、出勤の時間帯をずらしてもらい、事件に遭わないようにしてみた。けれど御堂は察しが良いのか、まるで僕の勤務時間に合わせるようにカフェにやってくる。 「簡単なことさ。きみが使っているエプロン。それが他の店員のエプロンの後ろに重なってかかっていたからね。そこからシフトの順番の予測ができる。カフェの店員が入れ替わる時間は、通っていればだいたい予想がつくもんだ」
推理を聞きたいのではなく、なぜ僕のいる時間を狙ってくるのか疑問なのだが。
「――最近、僕を避けているようですね」
そう言って、少しさみしげに微笑んだ。
彼は殺人鬼ではない。だが、近づけば毎日のように事件を目撃するはめになる。いや、むしろ彼がいるから事件が起こるのでは? とさえ思い始めていた。
ある日、店長がぼやいた。
「こんなに警察が出入りするようじゃ、店を続けるのも難しいな」
この言葉が、僕の中で何かを決定づけた。
探偵を、消すしかないのではないか。
そう考えるようになった。冗談ではない。本気だった。だが僕には、どうしても彼を殺す方法が思いつかなかった。
理由は単純だ。彼は探偵だから。すべてを見抜き、何が起きても必ず解決してしまう。下手に毒を盛れば、味のわずかな違いに気づくだろう。
気づかれるかどうか確認してみようと、試しに紅茶の中に塩を入れて出してみたが、もちろん完敗だ。
「いつもより遅かったな。ティーカップを厨房の奥に持っていって、何をしていたんだい?」
僕の中で絶望が膨らんでいった。自分のような凡人では出し抜くのは不可能だ。
そんなある日、彼がこう言った。
「きみが僕を殺そうとしていることに、気づいているんだ」
手が震えた。出そうとしていた紅茶のカップが小さく揺れる。彼は笑った。
「でも、きみがまだそれを実行できないのも知っています。きみは善良な人だ」
彼は封筒を差し出した。そして紅茶も飲まずに会計をすませて、店を出ていってしまった。
封筒の中には、一枚の手紙が入っていた。「わずかな時間だったが、楽しかった。さようなら。 御堂」とだけ書かれていた。
翌日、御堂は店に現れなかった。その翌日も、その次の週も。
彼は消えた。
店は徐々に客足を取り戻し、事件も起こらなくなった。僕は元の生活を取り戻した。
だけど、ときどき思い出す。
あの男が言った「きみが僕を殺そうとしていることに、気づいているんだ」という言葉。あれは、ただの推理だったのか? それとも彼はいたるところで同じような目に遭ってきたのだろうか。
そもそも彼がなぜこのカフェに通っていたのか、今思うと不思議だった。もしかして彼はシャーロック・ホームズにとってのジョン・H・ワトソン、エルキュール・ポアロにとってのヘイスティングズ大尉のような相棒を探していたのかもしれない。
そして僕はほんの短い間、彼の相棒だったのではないだろうか。
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