#212 四つ足

ちいさな物語

その道は、職場からアパートへの帰り道にある。

駅前の明るい通りを抜け、スーパーの裏手を通り、古びた橋を渡って、神社のわきの細道へ入る。そこからが、例の“暗い道”だ。

街灯はある。だが、間隔が空きすぎていて、道の途中からは、闇が勝っている。

その闇の端に、そいつはいる。

四つ足で立ち、じっとこっちを見ている。わずかに身じろぎをするような気配がしたので、生き物には違いないだろう。

最初に気づいたのは、三週間前。

私は仕事帰りで、コンビニの袋を提げて、いつも通りその道を歩いていた。ふと足を止めたのは、妙な気配があったからだ。

暗がりに、何かいる。

猫か? と一瞬思った。耳のような影が見える。でも、猫にしては大きすぎるような気がしたし、尻尾は見えなかった。

野犬か何かで飛びかかって来たら嫌だなと、私は警戒しながら、手前の道を曲がってアパートに帰り着いた。そしてそのまま忘れていたのだが――翌日も、そいつはいた。

同じ場所、同じ姿勢。私は試しに、小石をそちらに蹴ってみた。反応はなかった。石の跳ねた音だけが、乾いた夜道に響いた。

そのまま数日間、そいつは変わらずそこにいた。気味が悪いなと思いながらも実害はないので、私はだんだん、慣れてきた。毎晩暗がりに何かの動物がいる、それだけのことだ。

しかしなんとなく、最近、そいつとの距離が近くなっているような気がしてきた。

気づいたのは、十日目の夜。

あれ、近い。……というか、ちょっと道の真ん中に出てきていないか?

その翌日は、私が通るたびに、わずかに耳が動いたように見えた。

そして、そいつは初めて“音”を立てた。

ごくごく小さな、喉を鳴らすような音。猫のようなゴロゴロとも違う、低い擦過音だった。私は背筋に粟立つものを感じながら、走って帰った。相変わらず暗くてよく見えない。あれは、いったい何なのだろうか。

ある夜。雨が降っていた。

傘をさしていた私は、つい、足元の水たまりに気を取られてしまい、そいつの存在に気づくのが遅れた。

濡れたアスファルトの上に、そいつはいた。

今日は、立っていた。動物でいうと、後ろ足で立ち上がっているような様子だ。

思わず、ヒッと声が漏れた。

まるで、私を待っていたかのように、体をこちらへ傾けている。

私は傘を持つ手をぎゅっと握り、気付かないふりをして、手前の角を曲がろうとした、その時。

ひたひたひたひた。

雨音ではない。……そいつの、足音だった。後ろ足で立ったまま、こちらに向かって歩いてくる。

さすがに気付いていないふりをし続けるのは困難だった。私は濡れるのもかまわず、自宅までの道を駆け出した。

もう少し近かったら顔が見えたかもしれない。そう思うと、心底恐ろしくなった。

しかし、帰宅するにはあの道を通る以外ない。

翌日、ビクビクしながら帰路に着くと、あの生き物がいつもの場所にいない。

ほっとして角を曲がると――、いた。家の前に座って、こちらを見ている。

私は静かに後ずさりをして、もと来た道を戻った。

一体どういうことなんだ。駅前のファミレスで夕食をとることにしたが、箸が進まない。誰か、知り合いを呼ぼうかと、携帯を手にするが、それもみっともない気がして、そっと携帯をテーブルに戻す。
 
明るいファミレスにいると、さっきの出来事は気のせいで、あれもただの猫か犬が気まぐれに歩き回っていただけなのではないかという気がしてくる。

食事を済ませて、また路地に戻る。いつもの場所にはいない。そういえば、いつもアレがいる場所に、何かがあるのだろうか。

角を曲がらずに、いつもアレがいた場所に行ってみる。街灯が遠くて本当に暗い。

ニシ、ニシ。

何かが聞こえた。

辺りを見渡したが、異常はない。

この辺りは古い家が何軒かあり、ほとんど空き家だったはずだ。袋小路になっているので、住人以外が入ることもほとんどない。

ニシニシ、ニシニシ、ニシニシ。

やはり何かが聞こえる。あわてて見渡すと――

アレだ! アレがいる。古い家の門の脇、立ち上がってこちらを見て笑っている。

暗いが、わずかに届く街灯の光で顔が見えてしまった。

老婆とも猫とも見える顔は耳のあたりまで口元を開き「ニシ、ニシ」と奇妙な音を立てて笑っていた。

「うわぁああ」

私は大声をあげて走りながら、反射的に携帯電話で通報してしまった。

「ふ、不審者です。不審者がいます! 助けてください」

まさか化け物がいるとは言えなかった。警察官の声を聞いて、ようやく落ち着き、なぜ通報してしまったのかと後悔が襲ってくる。

しかし、結果――通報したのは正解だった。

あの古い家から遺体が発見されたのだ。

事件性はない。老婆の孤独死だったらしい。また、世話をする人がいなくなったためか、老猫も同じ場所で息絶えていたと聞いた。死後、三週間ほどが経っていたらしく、老婆と猫は一体化するように溶けかけていたのだそうだ。

アレは、ただ早く見つけてほしかっただけなのかもしれない……。

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