静かな街に、時計台が十二時の鐘を響かせた。月明かりの下、僕は深呼吸をして、そっと博物館の門を押した。
ここは、子供の頃から僕が一番好きな場所だった。
昼間は人々で賑わい、笑い声と足音が絶えないが、真夜中には何かが起きるという噂が密かに広まっている。
「真夜中、博物館の展示物は動き出すんだよ」
クラスメイトの大介が、昼間の教室で得意げに語った。
「まさか」
僕は笑って否定したが、実は密かに期待をしていた。今夜、その真実を確かめにやってきたのだ。
館内は昼間とは全く異なる雰囲気を漂わせていた。月光だけが展示物を青白く照らし、不気味な静けさが支配している。
息を殺して奥へ進んだときだった。
ガタン――。
僕は思わず立ち止まった。背筋がぞくりとした。
明らかに何かが動いた音がしたのだ。
慎重に音がした方向をのぞき込むと、そこにいたのはエジプトコーナーにあるはずの小さなスフィンクス像だった。
スフィンクスはガラスケースから出て床を歩き回っていた。
「噂は本当だったんだ」
僕のつぶやきが聞こえたのか、スフィンクスは振り返り、僕を見上げて言った。
「君は、人間だね」
僕は目を丸くしたまま頷いた。
スフィンクスは満足げにうなずくと、
「博物館へようこそ。真夜中だけ開かれる、秘密の世界へ」と言った。
すると、その声に呼ばれたように周囲の展示物が次々と動き始めた。
鎧の騎士が腕を伸ばしてあくびをし、恐竜の化石がのそのそと首を伸ばし始める。夢なのだろうか。
「これは、どういうこと?」
僕が問うと、スフィンクスは優しく微笑み、「博物館の展示物は、実は時間を旅する旅人なのさ」と静かに語り始めた。
彼らは過去のある瞬間から、何らかの力で切り取られ、この博物館に閉じ込められた。
昼間は人々の目にさらされて動けないが、真夜中になると、ほんのわずかな時間だけ、自由を取り戻すという。
「君もここに来たということは、何かを探しているのかな?」
スフィンクスに尋ねられ、僕は考え込んだ。
「僕は……秘密を知りたかっただけだよ」
スフィンクスは首を傾げて優しく言った。
「それならば、ついてきなさい。君が本当に知りたいことを教えよう」
彼について行くと、博物館の奥に見たことのない扉が現れた。扉の先には、小さな青い光が漂う不思議な部屋があった。その中央に置かれた水晶玉は、世界中の様々な場面を映し出していた。
「これは時の記憶だ。ここには世界のすべてが記録されている。君のこともわかるよ」
水晶玉を見つめると、僕自身の過去や未来までが、まるで映画のように流れていく。
しかしその中で、僕は不意に奇妙な場面を見つけてしまった。
それは、僕が幼い頃に失った父の姿だった。突然、胸が強く締めつけられ、僕は息を呑んだ。
「お父さん……」
父は、僕を置いて遠くへ旅立った日のままだった。
「お父さんに会えないかな?」
僕が問うと、スフィンクスは悲しげに首を振った。
「残念だけれど、それはできない。時を動かすことは許されていない。ただ、見ることだけ」
「それでもいい」
僕は食い入るように父を見つめた。
父は何かを話しているようだが、声は聞こえない。だがその表情からは、悲しみと同時に深い愛情が伝わってくる。
「彼が君に伝えたかったことはきっと、『愛している』ということだよ」
スフィンクスの声に、僕の目から涙が溢れ出した。
「知りたかったんだ。本当にそれだけを」
すると、突然、水晶玉が強く光を放ち、部屋全体が揺れ始めた。
「時間がきた。君は帰らなければいけない」
スフィンクスは僕を急かすように言った。遠く時計台の時計の音が聞こえる。
「また、ここに来れるかな?」
僕が聞くと、スフィンクスは寂しげに笑った。
「いや、どうかな。今のこの時間は奇跡のようなものだ。確率はとても低い」
僕は頷いて、静かに博物館を出た。
外に出ると、夜は明け始めていた。真夜中の博物館で起きた出来事は、夢のようだったが、胸の奥で確かな温かさを残していた。
翌日、僕はまた博物館を訪れたが、あのスフィンクスはただ静かに展示されているだけだった。試しに小声で話しかけてみたが、もちろん動き出すことはなかった。
それでも僕は確かに知ったのだ。
博物館は、人々が忘れかけた過去や、まだ誰も知らない未来を、真夜中にそっと見せてくれる場所なのだと。
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