#233 我は自販機、ここに在り

ちいさな物語

私は、ここにいる。

設置されたのはたぶん、もう何十年かは前になる。地下鉄の三番線ホーム、柱の陰。少し視界が悪いが、それでも人の流れはよく見える。

私は——自動販売機。古めかしい外観に、ガタガタと音を立てて働く中身。

ジュース、コーヒー、水、たまにスポーツドリンク。冷たいものだけ。ホットは扱えない。

でも、私は知っている。

ここを通る、無数の人間の顔、仕草、手の温度。一瞬の選択と、ためらいと、ため息と。

午前七時三十五分。いつものスーツの男がやってくる。彼はいつも、冷たい「ブラック缶コーヒー」を買う。夏でも冬でも同じだ。顔をしかめて一口飲み、黙って去っていく。そのたび、私は彼の唇の苦味を想像する。彼の缶が捨てられる先を、私は知らない。

八時過ぎ、女子高生ふたり組。彼女たちは私の前でじゃんけんをして、負けたほうが「いろはす・みかん」を買う。勝った方はそれを一口奪う。勝っても、飲むのは一緒。たぶん、それでいいのだ。

九時半、杖をついたおばあさん。買うものはいつも違う。新しいものが並んでいると優先的にそれを選ぶ。冒険心が強いおばあさんだ。おそるおそるボタンを押すたび、私は緊張する。取り出し口にかがむ姿に、思わず「がんばって」と声を出したくなる。人間は年をとるとあまり冒険しないと聞いたことがあるけど、このおばあさんは違う。

十三時ちょうど、作業着の男がタオルを首にかけて来る。スポーツドリンクをその場で飲み干す。空になった缶を隣のゴミ箱に捨てて彼は清々しく笑う。自販機に映った自分の顔が、少しだけよく見えたのだろうか。

十六時十五分、少女が現れる。制服姿のまま、私の前に立ち、なぜか何も買わない。ただしばらく、ぼうっと商品を眺めている。私は彼女に何かを売りたくなるが、彼女はポケットの中で手を入れたまま、去っていく。

夜の時間帯になると、面白い人が増える。

二十一時、カップルがやってきて紙パックのミックスジュースをひとつ買い、分けて飲む。私はずっと思っているが、それは衛生的にはよくないと思う。

二十三時五分、酔っぱらったサラリーマン。財布を落とし、拾って、落とし、また拾う。小銭が手から滑り落ちて、床を転がる。
私は「もう帰った方がいいですよ」と言いたいが、やはり言えない。

日付が変わる頃、たまに、奇妙な人物が来る。

顔がよく見えない、長い髪の女。スッと近づき、コインを入れる。しかし何もボタンを押さずに立ち尽くしている。私は何を売ればいいのか分からず、ただ静かに内部のライトを明滅させる。彼女は数秒じっと見ていて、そして何もせずにふっと立ち去った。

深夜二時。少年がホームの端に立っていた。鞄もなく、目に光もなく。しばらく立ち尽くしていたが、やがて、私の方へゆっくりと歩いてきた。

彼は黙って財布を出し、百円玉を二枚投入し、「ラムネ」を押した。ガコン。ボトルの落ちる音。

それを取り出し、ベンチに座って飲む。そして、飲みながら小さく泣きはじめる。やがてラムネをすっかり飲み干してしまうと、立ち上がってボトルをゴミ箱に捨てた。

「ありがとう」

その言葉は、私に向けてではなかったのかもしれない。けれど、私はその言葉から何かを受け取った。

私はずっとここにいる。

いつか撤去されるまで、何万という人の手を、ぬくもりを、選択を、飲み終えたあとの余韻を、ただ静かに見つめ続ける。

言葉も、足も、心も持たない私だけれど、ここにいる人間たちの気配が、私の中に染みこんでいる。

私は、今日も、缶を落とす。

その人にとって必要な、ほんのわずかな水分と、なにか——名前のつかない気持ちを一緒に込めて。たとえ気づかれなくても。

私は、ここに在る。

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