#608 古道具屋の記憶

ちいさな物語

陽翔はるとは、自分の手が嫌いだった。

物に触れるたび、その物のどうでもいい記憶ばかりが一方的に流れ込んでくるからだ。

消しゴムを拾えば、昨日だれの机から転がり落ちたのか見えてくる。

駅の手すりを握れば、この手すりに触れたであろう何人もの手のひらが次々と見えてくる。

「物の記憶が見えるなんて便利でいいじゃん」と友達は言ったが、陽翔にはいいとは思えなかった。

見えるのはたいてい何でもない過去の映像だった。そこから得られるものはほとんどない。頭の中が騒がしくなるだけだ。
 
ある雨の日、陽翔は商店街の端にある古道具屋で雨宿りをした。亡くなった祖父が骨董好きで小さい頃はよく連れてこられたものだ。

店主の志乃さんは、白髪を後ろで結んだ小柄な女性で、欠けた茶碗を丁寧に磨いていた。

「その手、ずいぶん疲れているようだね」

陽翔は驚いた拍子に古い木椅子の背に手が触れてしまった。とたんに、椅子が誰かの帰りを待っているような気がした。

「小さいときから知ってたけど、あんた、物の記憶が見えるんだろう」

志乃さんは当たり前のように言った。

「いえ、そんな大層なものでは……」

「ちょっと触れ方を変えてみな。人間と話すみたいに、やさしく、敬意を持って。そうすれば、あちらもあんたのために何かしたくなるからさ」

志乃さんは「やってみな」と、カウンターに置いてあるおもちゃみたいな鍵を指した。陽翔は半信半疑で鍵へ頭を下げた。

志乃さんは「あはは。素直な子だね」と笑った。

「失礼します」

指先が触れた瞬間、いつもの映像の濁流は来なかった。

かわりに、青い門、白い犬、小さな小箱が順番に浮かんだ。それは陽翔に順を追って何かを説明しているかのようだった。

最後に、誰かが泣きながら「ごめんね」と言っている声がした。声が聞こえたのは初めてかもしれない。

「あの、この鍵って……」

志乃さんはその鍵を丁寧に懐紙に包みながら言った。

「その鍵は、持ち主の家へ帰りたがっているだろう? ちょっと頼まれてくれないかい?」

陽翔はるとは翌日、その青い門を見つけた。その場所は鍵が教えてくれた。

古い家の表札には、鍵の記憶と同じ名前がある。

呼び鈴を押すと、出てきた老人は陽翔の手にある鍵を見て目を見張った。

「それはどこに? 妻の鍵だ。もう見つからないと思っていたんだが」

老人は震える手で鍵を受け取り、玄関に飾ってあった小さな小箱の鍵穴へ入れた。その箱も鍵の記憶から見たことがある。

カチと小さな音がした。

中には、黄ばんだ封筒が一通とこまごまとしたものが入っていた。

どこか旅行先のお土産に見えるキーホルダーや古いボールペン、何かの小瓶や指輪のようなもの。まるで小さな女の子の宝箱のようだった。

封筒の中身は手紙だった。老人は陽翔にもそれを見せてくれる。

「先に春を見に行きます。あなたはゆっくり来てください。また桜の花を一緒に見ましょう」と書いてあった。

老人は涙をこらえるようにゆっくりと瞬きしている。

陽翔は初めて、自分の手が誰かの役に立ったと思った。

それから陽翔は、物に触れる前に必ず挨拶をした。

落とし物の手袋には「こんにちは。さみしかったね」と言い、壊れた時計には「おつかれさま」と言ってから触れた。すぐに持ち主の顔を教えてくれて、何をどうしてほしいのかも伝えてくれた。

ときにはちょっとした宝物(きれいな花が咲いている場所や光る小石の落ちている河原など)について教えてくれた。

陽翔はできるだけ物たちの希望にそうように手助けをした。

志乃さんの店の手伝いもした。

志乃さんは骨董品たちのことがよくわかっているようで、それらに触れながら売るか売らないかを決めていた。

志乃さんはたぶん陽翔と同じ力を持っている。だから陽翔は志乃さんにいろいろなことを教わることにしたのだ。

それからずいぶん経った秋の終わり、志乃さんの古道具屋は閉まったままになった。貼り紙には「しばらく休みます」とだけ書かれている。

胸騒ぎがして、陽翔は戸口の真鍮の取っ手にそっと触れた。

「志乃さんのことを教えてください」

流れ込んできたのは、志乃さんが夜明け前に店を出ていく姿だった。

手には、布に包まれた欠けた茶碗がある。

映像の最後、志乃さんは振り返り、取っ手に向かって笑った。

「陽翔くんが来たら、これを渡して」

その瞬間、戸の内側で小さな音がした。今まさにそこに置かれたように白い封筒が落ちていた。

中には鍵が一本と、短い手紙が入っていた。

「店を頼みます。わたしは、長く預かっていたものを海へ返しに行きます。帰ってこられるかわかりません」

陽翔はるとは店の鍵を握った。すると鍵は、今まで見たことのない記憶を見せた。

志乃さんが若いころ、浜辺で拾った欠けた茶碗に触れている。茶碗は、沈んだ船の食卓、嵐の夜、帰れなかった人々の笑い声を覚えていた。

志乃さんはそれを何十年も磨き、話を聞き続けていたのだ。

翌日、陽翔は志乃さんに代わって店を開けた。

棚には、誰かに見つけられるのを待つ品々が静かに並んでいた。

彼は最初の客が来る前に、一つ一つへ挨拶をした。

「今日もよろしくお願いします」

すると、奥の壁に掛けられた振り子時計が時間でもないのに一度だけ鳴った。

その音に合わせて、店じゅうの物たちが目を覚ましたかのようにかすかに震える。

陽翔は少しだけ笑って、開店の札を外へ向けた。

今まで志乃さんを頼っていた人たちは、はじめは志乃さんの不在を聞くと黙って帰っていったが、次第に陽翔にも相談を持ちかけてくれるようになった。

物たちは今日も様々なことを語ってくれる。それが本当に幸せなことなのか、陽翔にはまだ分からない。

それでも彼は今日も、手を洗い、深く頭を下げてから触れる。物たちが差し出す過去は、もう重荷ではなかった。

それは、世界が黙ったまま抱えている、小さな手紙のように感じられた。

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