#232 午後三時のミルククラウン

ちいさな物語

午後三時になると、甘い香りが部屋いっぱいに漂う。

最初に気づいたのは、休日の午後だった。
 
ちょうどコーヒーを淹れながら、冷蔵庫にあったプリンを食べようとした瞬間、背後から声がした。

「こんにちは、おやつの精霊です!」

振り返ると、そこには紅茶色の髪をした小さな少女が、空中で足をぶらつかせていた。

赤いリボンのついたドレス、手にはフォークとナプキン。

見た目は10歳くらいだが、瞳には妙に大人びた光が宿っていた。

「……どこから入ってきたの?」

僕がそう言うと、彼女はちょんと空中で足を組んだ。

「午後三時の『おやつの時間』が開いたから、ここに来られたの。ねえ、今から何を食べるの?」

「プリンだけど……」

「素晴らしい選択!」

精霊はうっとりと目を閉じ、僕の手の中のプリンを覗き込んだ。

「ちゃんとスプーンは冷やした? カラメルはすくい残さないでね。おやつは心の礼拝なのよ」

その日から、彼女は毎日午後三時に現れるようになった。

名前はミル。正式には「午後三時の精霊ミルククラウン第七世」というらしいが、長いのでミルと呼んでいる。

僕がバームクーヘンを食べると、

「年輪に敬意を!」

クッキーを食べると、

「サクサクは命のリズム!」

と言って大騒ぎする。

最初は幻覚かと思ったが、どうやら本物らしい。

ミルはおやつの種類、歴史、その食べ方について、ものすごく詳しかった。

「フレンチトーストにシナモンをかけるなら、バターは半溶け状態で! ここ重要!」

言う通りにすると、半分溶けたバターにシナモンが絡み、絶品に。

「待って! バニラアイスはそのままでもおいしいけど、フルーツの缶詰と昨日のバームクーヘンを一口大に切ってトライフルみたいに盛り付けて。1分でパーティー気分よ」

ごく普通のカップのバニラアイスが豪華なデザートのようになり、まるで王宮のティータイムのように感じられた。

「今日は22日だから、絶対ショートケーキにすべき! どうしてって……カレンダーを見て。いちごがのっているでしょう?」

カレンダーを見ると、22日の上が15日だった。本当だ。いちごがのっている。その日のショートケーキはなんだか特別な感じがした。
 
しかし、ある日、僕はあまりに忙しくて、楽しみにしていた午後三時を逃してしまった。

気がつけば午後五時。おやつどころではなく、へとへとで夕食すら面倒になっていた。

その日ミルは現れなかった。

「まあ、たまには静かでいいかもな」

そう思った瞬間、部屋の空気がじわりと重くなった。

窓の外がわずかに揺れ、電気が一瞬だけ点滅する。幽霊でも出てくるのか?

しかし、幽霊ではなく、そこにいたのはミルだった——ただし、いつもの彼女とは様子が違う。

「……どうして、おやつの時間にいなかったの?」

その声はかすれ、瞳はどこか悲しげだった。

「ごめん、今日はめちゃくちゃ忙しくて……」

「午後三時は、“ここ”と“あちら”がつながる大事な境界なの。おやつの時間を逃すと、精霊界との扉が閉じかけてしまう」

ミルは切実な目をして僕を見つめる。心なしか向こう側が透けて見えるような気がした。

「もしこのまま『おやつの時間』を忘れ続けたら、あなたはもう私に会えなくなる」

思わず僕は息を呑んだ。

「それって、君が……消えるってこと?」

ミルは首を横に振った。

「違うわ。私たち精霊は“失われる”の。思い出してくれる人がいないと、存在の形そのものがほどけていくの」

それは僕にとっては消滅と同義ではないのか。

次の日から、僕は毎日きちんと午後三時におやつを用意するよう心がけた。

忙しい日はコンビニに買いに走った。

それをきっかけに、少しずつ自分の時間を取り戻すことができたような気がする。

ミルはまた笑顔で現れるようになり、僕の生活にしっかりとしたリズムが息づいてきた。

不思議なことに、ミルのいる午後三時だけは、時間の流れが柔らかく感じられる。

まるで心が、ふわっと膨らむような。それは小さな喜びの連続だった。

「おやつって、ただ食べるだけのものじゃないんだな」

ある日ぽつりとそう言うと、ミルは満足そうに頷いた。

「そうよ。おやつは――午後三時は魔法の時間。積み重ねれば心がどんどん豊かになるわ」

春が来た。

午後三時の陽射しはますます優しく、窓際でミルがうっとりと紅茶を眺めている。

僕の暮らしは少しずつ変化していったが、たった一つだけ変わらないことがある。

それは、午後三時になれば、僕はかならずおやつを用意するということ。そしてそのおやつの時間は小さな精霊との交流を楽しむことだ。

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