午後三時になると、甘い香りが部屋いっぱいに漂う。
最初に気づいたのは、休日の午後だった。
ちょうどコーヒーを淹れながら、冷蔵庫にあったプリンを食べようとした瞬間、背後から声がした。
「こんにちは、おやつの精霊です!」
振り返ると、そこには紅茶色の髪をした小さな少女が、空中で足をぶらつかせていた。
赤いリボンのついたドレス、手にはフォークとナプキン。
見た目は10歳くらいだが、瞳には妙に大人びた光が宿っていた。
「……どこから入ってきたの?」
僕がそう言うと、彼女はちょんと空中で足を組んだ。
「午後三時の『おやつの時間』が開いたから、ここに来られたの。ねえ、今から何を食べるの?」
「プリンだけど……」
「素晴らしい選択!」
精霊はうっとりと目を閉じ、僕の手の中のプリンを覗き込んだ。
「ちゃんとスプーンは冷やした? カラメルはすくい残さないでね。おやつは心の礼拝なのよ」
その日から、彼女は毎日午後三時に現れるようになった。
名前はミル。正式には「午後三時の精霊ミルククラウン第七世」というらしいが、長いのでミルと呼んでいる。
僕がバームクーヘンを食べると、
「年輪に敬意を!」
クッキーを食べると、
「サクサクは命のリズム!」
と言って大騒ぎする。
最初は幻覚かと思ったが、どうやら本物らしい。
ミルはおやつの種類、歴史、その食べ方について、ものすごく詳しかった。
「フレンチトーストにシナモンをかけるなら、バターは半溶け状態で! ここ重要!」
言う通りにすると、半分溶けたバターにシナモンが絡み、絶品に。
「待って! バニラアイスはそのままでもおいしいけど、フルーツの缶詰と昨日のバームクーヘンを一口大に切ってトライフルみたいに盛り付けて。1分でパーティー気分よ」
ごく普通のカップのバニラアイスが豪華なデザートのようになり、まるで王宮のティータイムのように感じられた。
「今日は22日だから、絶対ショートケーキにすべき! どうしてって……カレンダーを見て。いちごがのっているでしょう?」
カレンダーを見ると、22日の上が15日だった。本当だ。いちごがのっている。その日のショートケーキはなんだか特別な感じがした。
しかし、ある日、僕はあまりに忙しくて、楽しみにしていた午後三時を逃してしまった。
気がつけば午後五時。おやつどころではなく、へとへとで夕食すら面倒になっていた。
その日ミルは現れなかった。
「まあ、たまには静かでいいかもな」
そう思った瞬間、部屋の空気がじわりと重くなった。
窓の外がわずかに揺れ、電気が一瞬だけ点滅する。幽霊でも出てくるのか?
しかし、幽霊ではなく、そこにいたのはミルだった——ただし、いつもの彼女とは様子が違う。
「……どうして、おやつの時間にいなかったの?」
その声はかすれ、瞳はどこか悲しげだった。
「ごめん、今日はめちゃくちゃ忙しくて……」
「午後三時は、“ここ”と“あちら”がつながる大事な境界なの。おやつの時間を逃すと、精霊界との扉が閉じかけてしまう」
ミルは切実な目をして僕を見つめる。心なしか向こう側が透けて見えるような気がした。
「もしこのまま『おやつの時間』を忘れ続けたら、あなたはもう私に会えなくなる」
思わず僕は息を呑んだ。
「それって、君が……消えるってこと?」
ミルは首を横に振った。
「違うわ。私たち精霊は“失われる”の。思い出してくれる人がいないと、存在の形そのものがほどけていくの」
それは僕にとっては消滅と同義ではないのか。
次の日から、僕は毎日きちんと午後三時におやつを用意するよう心がけた。
忙しい日はコンビニに買いに走った。
それをきっかけに、少しずつ自分の時間を取り戻すことができたような気がする。
ミルはまた笑顔で現れるようになり、僕の生活にしっかりとしたリズムが息づいてきた。
不思議なことに、ミルのいる午後三時だけは、時間の流れが柔らかく感じられる。
まるで心が、ふわっと膨らむような。それは小さな喜びの連続だった。
「おやつって、ただ食べるだけのものじゃないんだな」
ある日ぽつりとそう言うと、ミルは満足そうに頷いた。
「そうよ。おやつは――午後三時は魔法の時間。積み重ねれば心がどんどん豊かになるわ」
春が来た。
午後三時の陽射しはますます優しく、窓際でミルがうっとりと紅茶を眺めている。
僕の暮らしは少しずつ変化していったが、たった一つだけ変わらないことがある。
それは、午後三時になれば、僕はかならずおやつを用意するということ。そしてそのおやつの時間は小さな精霊との交流を楽しむことだ。
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