#580 持ち帰り

ちいさな物語

私は、ごく普通のサラリーマンだ。

特別な才能があるわけでも、霊感があるわけでもない。少なくとも、先月のあの日まではそう信じていた。

私の「とある変化」に、何かのきっかけがあったのかどうか、それすらよくわからない。

あの日、仕事の都合で、私は地方の古びたビジネスホテルに泊まることになった。

そのホテルは、壁が薄く、廊下を歩くスリッパの音が部屋まで筒抜けになるような場所だった。

深夜の二時を過ぎた頃、私は突然の金縛りに襲われた。

金縛りは初めてだ――と、ちょっとした興奮を味わったのもつかの間、体の上に、目に見えない巨大な重石が乗せられたような感覚に息苦しくなる。

しかも指一本動かすことができない。どうすることもできず、ただ天井を見つめていた。

すると、枕元でタタタタッという、子供が走り回るような足音が聞こえ始めた。

怪談でよく聞くパターンだ。この部屋はそういう部屋なんだろうか。

足音はベッドの周りを何度も往復し、時折、私の耳元で小さな笑い声を残していく。姿は見えない。

「参ったな……明日は大事な会議なんだけど」

私は心の中で文句を言ったが、金縛りは一向に解ける気配がなかった。

結局、その夜はほとんど眠れず、明け方にうとうとしていたらアラームが鳴った。

最悪の目覚めだったが、私は重い体を引きずってなんとか仕事をこなし、ヘトヘトになって帰宅した。

自分の部屋に入り、ようやく一息ついた時、異変は起きた。

背後で、あの「タタタタッ」という足音が聞こえたのだ。

振り返っても誰もいない。

まさか……ついてきてしまったのか?

そのときは絶望感に目の前が真っ暗になったが、数日が過ぎると、私はその状況に慣れてきてしまった。

実害があるわけではないし、夜中に少し騒がしいだけ。

しかし、そのたぐいのトラブルはこれだけで終わらなかった。

次の出張先では、ビジネスホテルへ向かう途中の電話ボックスで髪の長い女性が泣いていたのを目撃した。

もちろん最初からそれが、怪異だと思ったわけではない。電話ボックスなんてまだあるんだと思ったくらいだ。

しかし翌朝、そこを通ると電話ボックスなんてなかったのだ。

単なる思い違いかと思っていたが、帰宅するとその電話ボックスは我が家のクローゼットの中に設置されていた。

そして、あの髪の長い女性は今、やはり電話ボックスで、夜な夜なシクシクと泣いている。

朝には無くなっているので邪魔にならないが、泣き声は耳に障る。

さらにその翌週、廃病院を通りかかった際に、建物の隙間からのぞく「目」と目が合ってしまった。

案の定、その「目」は今、我が家の隙間という隙間に出没し、テレビを見ているとたまに目が合ってしまう。

私の家は、気づけば怪異たちのシェアハウスのような状態になっていた。

彼らは互いに干渉することなく、思い思いの場所で自分たちの「怪異」を続けている。

クローゼットでは女が泣き、いたるところで子供が走り、隙間からは男がこちらを覗いている。

普通なら発狂してもおかしくない状況だが、不思議と恐怖は感じなかった。なぜ私についてきたのか不思議だっただけだ。

ある夜、私はリビングでテレビを見ながら、背後を走り抜ける子供に声をかけた。

「おい、あまり騒ぐと下の階の人に迷惑がかかる。追い出されたら、行くとこないぞ」

足音がとまった。

そして、女の泣き声が少しひそめられた。隙間男は瞬きをしている。

彼らは、自分たちの存在を容認し、普通に接する私に驚いているようだった。

それ以来、家の中はほんの少しだけ静かになった。

――とはいえ、私は次の出張が憂鬱で仕方がない。

動画を見ながら、塩をまいたり、お経を唱えたりしてみたが、まったく効果がなかった。除霊なんて嘘ばっかりだ。

残念ながら、私の家はこれからも、少しずつ賑やかになっていくのかもしれない。

「おい、寝るから静かにしろよ。私が仕事をできなくなったら、ここに住めなくなるぞ」

いつも通り、足音は止まり、女も泣き声のボリュームを下げる。

明日もまた満員電車に揺られて仕事へ行くのだ。

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