今年の夏は、どうにも蒸し暑くて、毎日が退屈だった。
セミの声ばかりが響く昼下がり、僕は屋上で空を眺めていた。団地の屋上は子供たちの秘密基地だったけれど、このごろは飽きてしまったのか誰も来ない。
僕は寝転がって雲を見ていた。白い雲の切れ間に、ぽっかりと青空が広がっている。
そのとき、ふと視界の端に、不思議なものが見えた。入道雲の切れ間から、なにか大きな影が、ゆっくりと流れていく。
最初は気のせいかと思った。でも、よく目を凝らしてみると、それはクジラだった。本物のクジラが、青空を泳いでいるのだ。
水の中ではなく、雲を割って、悠々と泳いでいる。信じられなくて、僕は立ち上がった。
けれど、何度見てもそのクジラは確かにいた。
背びれが雲を押し分け、尾びれが風に乗って波のように揺れている。
あまりにも大きく、あまりにも静かで、現実味がなかった。
僕は慌ててスマホを取り出したけれど、カメラを向けると雲しか映らない。
「幻?」とつぶやいたとき、どこからか声が聞こえた。
「見えたんだね」
振り向くと、見知らぬ男の子が立っていた。
白いシャツに短パン、裸足。僕より少し年下くらいに見えた。
「君にも見えるの?」と尋ねると、男の子はにこりと笑った。
「うん、でも見えるのは今だけだよ。夏が終わると消えちゃうんだ」
僕は不思議な気持ちになった。
男の子は屋上の端まで歩いていき、空のクジラをじっと見つめている。
「どうしてクジラが空を泳いでるの?」
「それはね、夏のあいだだけ空に迷い込むんだよ。子供の夢と一緒に」
男の子の言葉は、とても自然で、どこか説得力があった。
「じゃあ、あのクジラはどこへ行くの?」
「夏の国を泳いで渡るんだ。僕も一度だけ、乗せてもらったことがあるんだ」
「乗れるの? 本当に? どうやって?」
男の子は笑って、僕の手をそっと握った。
「目を閉じてごらん」
僕は言われるがままに、目を閉じた。
次の瞬間、風の匂いが変わった。冷たい潮風と、どこか遠くの雷の音が聞こえる。
「開けていいよ」と声がした。
目を開けると、僕は空に浮かぶクジラの背中に立っていた。雲の海が足元に広がり、遠くの町が小さく見える。クジラはゆっくりと空を渡っていく。
「すごい……でも、少し怖い」
僕がつぶやくと、男の子が言った。
「大丈夫、クジラはやさしいから」
僕たちはしばらく黙って空を旅した。
夏の風が肌をなで、雲の隙間から陽の光がこぼれる。クジラは大きな声で歌い、空中に響く。
その歌はどこか懐かしくて、寂しくて、心が温かくなるようだった。空の中にいるのか、海の中にいるのか、よくわからなくなる。
「ねえ、君の名前は?」
「僕? 僕はここにしかいない。それ以上でもそれ以下でもないんだ」
それから男の子は何も言わなくなった。
やがて、クジラが大きく旋回し始める。
「そろそろ、帰る時間だよ」
男の子がそう言うと、クジラの背中から静かに風が吹き抜け、僕の体がふわりと浮いた。
次に目を開けたとき、僕は屋上で寝転んでいた。
隣には、誰もいなかった。
雲はすっかり形を変え、空のクジラはもう見えなかった。
「夢……だったのかな」
あれから何度も空を見上げてみたけれど、あのクジラは二度と現れなかった。
けれど、夏が来るたびに、僕は屋上にのぼり、雲の向こうを探してしまう。もしかしたら、またいつか、空を渡るクジラと出会えるんじゃないかと思って。
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