#377 霧の街のリィド

ちいさな物語

霧の街〈リュミエール〉は、今日も灰色に沈んでいた。

低く垂れ込めた雲の下、石畳は夜明け前の雨を吸い込み、鈍く光っている。人々は足早に通りを行き交い、影のように家々へ消えていった。

そんな中、一人だけ異彩を放つ姿があった。銀色の髪を短く刈り、深い蒼の軍服を身にまとった若き騎士――リィド・アルバ。

すらりとした体躯に、凛とした眼差し。男とも女ともつかぬ美貌は、この霧の中でもはっきりと際立っていた。

「あれはどこの貴族様だろう」

「わからないが、名のある方には違いないだろう」

道端の商人や老婆がひそひそと囁く。だが、その真実を知る者はいない。リィド自身も、自分の素性を語ろうとはしなかった。

僕――ユアンがその人に出会ったのは、偶然のようで必然のような一瞬だった。市場の裏路地で、見知らぬ男たちに取り囲まれた僕を、鋭い剣さばきで救い出してくれたのだ。

「礼はいらない」

リィドは素早くそう言って、剣を布で拭い、無造作に鞘へ収めた。霧の中、その蒼い軍服はまるで夜明け前の海のように揺れて見えた。

その日から、僕はリィドの後を追うことになった。

リィドは「勝手にすればいい」とだけ言い、拒むことも受け入れることもなく歩き続ける。

霧の街を抜ける道は複雑で、外から来た者には迷路のようだ。しかしリィドは迷いなく進む。時折、立ち止まって霧の向こうをじっと見つめる。その視線の先には、誰もいない。

まるで、そこにしか見えない何かを追っているようだった。

僕が初めてそれを口にしたとき、リィドは薄く笑った。

「この街は、まだ眠っているんだ」

その言葉の意味は、後になってから嫌というほど思い知ることになる。

僕はリィドの背中を追いながら、霧に沈む街を歩き続けた。

石畳はどこまでも濡れ、家々の壁は苔むし、窓は曇りガラスのように曖昧だった。外から見ると人の気配などないのに、時折どこかで窓の奥がきらりと光り、誰かがこちらを見ている気がした。

「なあ、どこへ行くんだ?」

僕がそう尋ねると、リィドは振り返らずに答えた。

「北区だ。古い礼拝堂がある」

礼拝堂。そんなものがまだ残っているとは知らなかった。霧の街は長く戦火と疫病にさらされ、古い建物はほとんど崩れ落ちてしまったはずだ。街全体が病に蝕まれているようだった。

やがて小さな広場に出た。

そこには白い石で作られた尖塔が、霧の中からぼんやりと浮かび上がっていた。


「ここだ」

リィドが扉を押し開けると、軋んだ音が響いた。中は薄暗く、色褪せたステンドグラスからは霧の色の灰色の光が差し込んでいる。

祭壇の前に進むと、リィドは腰の剣を外し、跪いた。

「ユアン。お前はそこに立って見ていろ」

そう言われて従った僕の耳に、かすかな囁き声が届いた。

――帰れ、帰れ、帰れ。

声は礼拝堂の壁や天井からではなく、足元の石畳から湧き上がってくるようだった。

「……何だ、この声」

思わずつぶやくと、リィドが立ち上がり、僕の方を振り向いた。

「お前、聞こえるのか。――なら、お前も戦える」

その瞬間、床の石がひとつだけ沈み込み、黒い穴が開いた。そこから冷たい風が吹き出し、霧が渦を巻いて流れ込んでいく。

リィドは穴を覗き込み、低く呟いた。

「この下に、街を縛る“核”がある」

核――? 僕が問い返す間もなく、穴の奥から細長い手が伸び、リィドの足首を掴んだ。そして僕の足も。

それは人の皮膚のようでいて、冷たく、湿っていた。まるで霧につかまれたようだった。

「下がっていろ!」

リィドは剣を抜き、その手首を一閃で断ち切った。切り口からは血ではなく、濃い霧が噴き出した。

「……今のは何だ?」

「霧の番人だ。この街を眠らせている存在」

礼拝堂の中は急速に霧で満ち、僕は咳き込みながら後ずさった。まるで街中の霧が集まってくるみたいだった。リィドは剣を構えたまま、霧の中を進んでいく。

「俺はもともとこの霧の中に眠らされていたんだ。霧の一部だったんだよ。そしておそらくお前も。霧の声を聞き分けられるのがその証拠」

その告白は、霧よりも重く僕の胸に沈んだ。

「この街を解放するのが俺の役目だ。……お前も、ここで立ち止まる気はないだろう?」

僕は頷くしかなかった。

穴の奥から、再び何かが這い上がってくる気配がする。金属が軋む音と、何百もの囁きが混ざったような不気味な声が、礼拝堂全体を震わせた。

「ユアン、後ろを守れ!」

リィドが叫ぶ。振り向けば、扉の隙間から無数の白い指が伸び、こちらへとじりじり迫ってきていた。

僕は近くにあった燭台を手に取り、思い切り扉へ叩きつけた。火の粉が舞い、指は一瞬で引っ込んだが、またすぐに別の隙間から現れる。

その間にも、リィドは穴の奥へ剣を突き立て、何かを断ち切るたびに、街の霧が少しずつ薄れていった。

「……もう少しだ!」

だが、番人の叫びが響き、礼拝堂全体が揺れた。天井の石が崩れ落ち、僕たちはとっさに互いの腕を掴んだ。

最後の一閃。

リィドの剣が穴の底を貫いた瞬間、礼拝堂の中に溜まっていた霧が一気に吸い込まれていった。

静寂が戻る。リィドは息を整え、剣を納めた。

「……終わった」

礼拝堂を出ると、街はもう灰色ではなかった。雲の切れ間から陽が差し、石畳は淡く光っていた。

「これで、この街は自由だ」

リィドはそう言ったが、その笑みはどこか寂しげだった。僕は言葉を探しながら、ただ一つだけ尋ねた。

「これから、どこへ行くんだ?」

リィドは少し考えてから、霧の消えた空を見上げた。

「……次の街だ。まだ霧が眠っている場所がある。これは霧の声を聞くことができる者の使命なんだ」

そう言い残し、彼は背を向けて歩き出した。僕はその背中を、今度は追わなかった。

黙ってリィドとは反対の方向へ歩き出す。まだ霧に眠らされている街がある。僕にもそれを助けることができる。それなら選ぶ道はひとつだ。

リィドには、いつかまた別の霧の街で会える気がしていた。

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