#407 メタモルフィット

ちいさな物語

「……誰だ、これ」

全身鏡の前に立ち、浩介は息をのんだ。鏡の中の男は確かに自分のはずだった。だが、以前の自分とはまるで別人のようだ。

二重あごは消え、ぽっこり出ていた腹は平らになった。

顔の輪郭は鋭く、目つきまで変わった気がする。ずっと履けなかった細身のズボンも、スルリと通った。たった三ヶ月での激変。

極端な食事制限と運動、そしてあのサプリメント――「メタモルフィット」の効果だった。

「ダイエットに成功……したんだよな」

自分に言い聞かせるように呟く。

確かに体重は三十キロ以上落ちた。それは目標だった。だが、なぜか自分の顔に見覚えがない。

頬を触る。骨ばった感触が指先に伝わった。

「……俺って、こんな顔だったか?」

写真を探した。

三ヶ月前の自分。かなり太ってはいたが、笑うと目じりに皺が寄り、少し丸い鼻が特徴だった。

今、鏡の中にあるのは鋭い鼻筋と冷たい眼差し。まぁ、イケメンといえる部類だが、明らかに痩せた自分という顔ではない。他人だ。「痩せる」と「変わる」は違う……はずなのだが。

その違和感が鏡を見るたびに膨れ上がる。しかし、痩せて顔が変形するということが現実に起こるのかどうかはわからない。第三者の視点で判断してもらった方がいいだろう。

翌日、会社で同僚が声をかけてきた。

「おお、浩介、痩せたな! 別人みたいだ!」

褒め言葉のはずなのに、胸に引っかかった。別人――やっぱりそう見えるのか。

「うん……まあね」

曖昧に笑うと、同僚は「お、どうした?」と、少し戸惑ったような表情をする。痩せて顔は変わったが、俺だと認識しているようだ。

夜、再び鏡を覗き込む。

「メタモルフィット」の瓶が光を反射した。

広告には「あなたの本当の姿を取り戻す」と書かれていた。

取り戻す? ただ痩せるのではなく、姿を取り戻す? では、俺の“本当の姿”は、今のこの顔なのか?

一週間後、なぜか変化はさらに進んだ。

髪の毛の質感が変わり、瞳の色も微妙に変わっている。鏡の中の自分は、もう完全に知らない男だった。

それでも周囲は自然に受け入れている。

「浩介、ますますカッコよくなったな」

「前からそういう顔だったっけ?」

軽口を叩く同僚に、背筋が冷たくなる。誰も、違和感を覚えていない。俺がちょっと垢抜けたくらいの感覚で話しかけてくる。変化はそんなもんじゃないはずだ。完全に別人だ。別人のままさらに別人に遠ざかっている。

ある夜、夢を見た。

見知らぬ部屋で、見知らぬ家族と食卓を囲む夢。妻らしき女性、子どもらしき少年。

彼らは当然のように「おかえり」と俺を迎え入れた。

目が覚めると、胸がざわついた。

――あれは夢だったのか。

いや、もしや……記憶がすり替えられている?

「メタモルフィット」のラベルを剥がすと、下から別の文字が浮かび上がった。

「形態記憶因子」

そして小さく「使用者は正しい姿に適合する」と書かれていた。

正しい姿?

では、俺が今なりつつあるこの顔こそ、サプリが導き出した「正しい形」なのか? 俺は一体誰なんだ? 正しくなかった俺の姿は何だったのだ。

翌朝、鏡を見た。

そこに映るのはもう佐伯浩介と呼ばれた人間ではなかった。骨格も声も、別人そのもの。その証拠にスマホの顔認証がまったく作動しない。どういうわけか、顔とは関係ないはずのクレジットカードの本人確認もはじかれる。社会的に「佐伯浩介」という存在は消えかけていた。

だが、街を歩くと、すれ違う人々が振り返る。

「あれ……?」

「あの人、見たことある」

「俳優の……って人じゃない?」

「ああ、確か行方不明じゃなかったけ?」

囁きが耳に入る。

俺はこの世界のどこかで、別の人間として存在していたようだ。メタモルフィットはただのサプリではなかった。

俺を本来の持ち主に戻す薬品だったのだ。

その夜、夢の中の家族が再び現れた。

「やっと戻ってきたのね。ファンの人たちもずっと待ってたのよ」

「パパ!」

優しく笑う女と幼い少年の声。俺は首を振ろうとした。だが、声が出なかった。

――そして朝。

鏡に映るのは完全に知らない男だった。その顔は、俺ではない誰かの顔。だが、記憶はゆっくりと塗り替えられていく。

俺は最初から佐伯浩介ではなかった。

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