#618 育つ山

ちいさな物語

工藤の趣味は登山だった。

休日になるといそいそと山へ出かけて行く。その日は、初心者向けの低山で軽い登山を楽しむ予定だった。

しかし、その日はいつもと違う奇妙な感覚に囚われていた。

登り慣れたはずの軽めの山。しかし、気がつけば周囲の景色は見覚えのないものに変わっていた。

まさか、遭難?

難所の少ない山でも、登山である以上、油断は禁物だ。

しかし、その異変は「遭難」とは少し違っていた。

辺りの木々の幹は不自然に白く、葉はまるで薄いガラスでできているかのように、風が吹くたびに「チリン、チリン」と硬質な音を立てて響き合う。

足元の土は柔らかく、踏みしめるとまるですりおろした生姜のような、ツンとした、しかしどこか甘い香りが立ち上った。

この山の匂いではない。

工藤はGPSを確認しようとスマートフォンを取り出したが、画面は見たこともない幾何学的な模様が明滅するだけだった。

そのうえ、霧が濃くなってきた。

白い霧のカーテンの向こうから、誰かが歩いてくる足音が聞こえた。カサ、カサ、と乾いた葉を踏む音。

工藤は身を固くした。

現れたのは、植物の根を編み込んだような不思議な上着を着た子供だった。

驚くべきは、その子供の肌だった。露出している腕や顔の皮膚が、完全に滑らかな木肌のようだったのだ。髪の毛は深い緑色の苔のような色だ。

「こんにちは、旅の人」

子供は、鈴を転がすような、しかし同時に大昔の録音テープを再生したときのような、不思議な二重の響きを持つ声で言った。

「君は……?」

工藤は圧倒されながらも尋ねた。

「この山そのもの……というのかな。実は落とし物をしてしまって、それがないと夜が始められないんだ」

「夜を――始める?」と工藤が困惑して問い返すと、子供は頷いた。

「そう、山の『ネジ』が外れてしまった。こうなると山は朝と夜を切り替えられない。ねえ、一緒に探してくれない?」

自分が遭難しているのかどうかすら判断できない工藤は、その不思議な子供の頼みを引き受けることにした。他に手立てがなかったからだ。

二人は霧の中を歩き回った。子供が歩いた足跡から、小さなキノコがピョンと生えてはしぼむのが見えた。ぴょこっとミミズが立ち上がることもあった。

異形――そんな言葉が頭をよぎる。

「ネジって、どんな形をしているんだ?」

「丸くて、少しやわらかくて、ちょっと甘い。触るとほんのり温かいよ。あ、その木の根元あたりを見てみて」

工藤が巨大なブナの木の根元を探ると、確かにそこには、金属のようでいて木の実のようでもある、不思議な質感の突起があった。

触れると、生き物の体温のように温かい。

「これかい?」

「そう、それ! よかった。ありがとう」

子供は嬉しそうにそれを受け取ると、自分の胸のあたりのくぼみに、それをカチリとはめ込んだ。

その瞬間、周囲の霧がサーッと引いていき、夕暮れの赤い光が木々の奥まで差し込んできた。

「これで一安心。お礼に、これをあげる。これは山の『種』だよ」

子供は工藤の手のひらに、親指ほどの大きさの、奇妙な形をした黒い石を握らせた。

表面に無数の細かい脈が走り、ドク、ドク、と微かに脈打っている。少し気持ち悪い。

「あなたの住む街の土のある場所に植えて。この山はもうすぐ寿命だから、引っ越しをしなきゃならない。山を育てるのは楽しいからやってみたらいいよ。あなたは山が好きみたいだからね」

工藤が問いかけようとした瞬間、強い突風が吹き抜け、彼は思わず目を閉じた。

目を開けると、そこはいつもの見慣れた登山道だった。

夕日が西の空を赤く染めている。スマートフォンの電波も正常に戻っていた。

「夢だったのか……?」

狐につままれた気持ちでポケットを探ると、指先にあの黒い、脈打つ石が触れた。

夢ではなかったと思うべきか。知らないうちに変な石を持ってきてしまったのか。しかしすべてを否定するかのように石は脈打ち続けている。

街に戻った工藤は、自宅マンションのベランダにあるプランターの土に、その石を深く埋めてみた。

十日間、プランターには何も起きなかった。やっぱり夢だったのだ。工藤は少しだけ安心し、少しだけがっかりしていた。

しかしその翌日の朝、プランターの土を突き破って、植物の芽ではなく、灰色のゴツゴツとした「岩の破片」が生えてきた。

その破片は日を追うごとに大きくなり、一ヶ月が経つ頃には、高さ三十センチメートルほどの、完璧な造形をした「ミニチュアの岩山」が完成していた。

それまでに2回ほどプランターを大きくして植え替えた。

ゴツゴツした岩山だったそれは、裾野の方に少しずつ苔のようなものが生えてきていた。

よく見ると、それは極小の木々が生い茂っているようだった。山頂には白い雪らしきものまで冠している。

これは確かにおもしろい。精巧なジオラマやフィギュアは大好きだった。

虫眼鏡で観察するとごく細い川の流れも観測できた。さらに数日後には埃ほどの大きさの鹿や猪も現れる。

工藤は山の成長に夢中になった。

小さな山は、今日も静かに、しかし確実に、その高さを増している。工藤の部屋で、新しい山が、少しずつ、しかし着実に育ちつつあった。

問題はこの山が本当に元の山のように大きくなるのであれば、このマンションをつぶしてしまうことだろう。

いや、マンションだけでは済まない。ここ一帯は緑に覆われて、巨大な山岳地帯になってしまうのではないか。

しかし、工藤はそんな想像すら楽しんでいた。もはや山はベランダには置けず、リビングをほぼ占拠している。壁は常にミシミシと不吉な音を立てていた。

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