#617 暗闇のポップコーン・サスペンス

ちいさな物語

私は今、人生最大にして最高にくだらない危機に直面している。

場所は薄暗い映画館のシアター4、中央やや後方の良席である。

この映画館はかなり古いが、ゆっくりと鑑賞できる穴場なのだ。

確かに設備は古いし、「お化けが出る」なんてくだらないことをいう連中もいるが、満席で好きな時間に観られなかったり、ざわざわして落ち着かないよりは断然いい。

その日、スクリーンでは世界的な大ヒットを記録している超大作アクション映画が上映されていた。

しかし私は映画のストーリーに一ミリも集中できていなかった。

なぜなら、私の右隣の座席から、ぬっと伸びてきた「見知らぬ手」が、私が抱えるポップコーンのバケツに不法侵入しているからだ。

それは実に見事な手際だった。

暗闇の中、迷いのない軌道で私の膝の上のバケツへとアプローチし、キャラメル味のポップコーンを三粒ほど的確にホールドして、闇の向こうへと消えていく。

手の大きさからして男だろう。しかし、私の右隣に誰が座っていたのか、正直まったく覚えていない。

最初は「肘掛けのホルダーの位置の目測を誤ってしまったのかな」と思った。暗いし。

しかし、男は明らかに私のポップコーンを自分のものだと思い込んでいるかのように貪り食っている。

常識的に考えて「あの、それ僕のなんですけど」と声をかけるべき局面だ。

しかし、ここは静粛を美徳とする映画館である。

しかもスクリーンでは今、主人公が絶体絶命のピンチを迎えており、切迫感のあるBGMと激しいアクションシーンの効果音で息つく間もない展開を迎えている。観客が我を忘れて引き込まれているのが嫌でもわかる。

ここで「ポップコーン泥棒!」と叫ぶのは、かなりまずい。

やっぱり間違えただけじゃないか?

私だって間違えることはある、人間だもの。

男はただ、自分のポップコーンをどこに置いたのか、激しい爆破エフェクトのせいで記憶が飛んでいるだけなのではないか。

そう自分に言い聞かせ、私はあえて何も言わず、男の動向を監視することにした。

数分後、再び闇から手が伸びてきた。

今度は塩味のエリアを狙ってきた。

これはMサイズのハーフ&ハーフ、キャラメルソース多めというこだわりの一品なのだ。

心の中で「そっちは塩味だぞ。他人様のポップコーンで味変かよ」とツッコミを入れつつ、スクリーンの光で明滅するその手をじっと見つめる。

男の手は驚くほど滑らかで、まるでポップコーンのソムリエか何かのような洗練された指さばきを見せている。

サクサクという咀嚼音が、映画の重低音の隙間から私の鼓膜を刺激する。

なんだか腹が立ってきた。

こっちは売店で「もうちょっとキャラメルかけて。んー、ごめん、あともうちょっとだけ……」と粘り、恥ずかしい思いまでして手に入れているのだ。

それをなぜ見知らぬ男に、特等席でタダ食いされなければならないのか。

私は決意した。

言葉で抗議するのではない、行動で示してやる。

男の手が三度目に侵入してきたその瞬間、私は自らの左手をバケツの中に突入させた。

暗闇のバケツの中で、私の手と男の手が、一粒のキャラメルポップコーンを奪い合う形で激しく接触した。

男の指先が一瞬、ビクッと跳ね上がったのがわかった。

「どうだ。タダで食えると思うなよ」と私は心の中でニヤリとした。

しかし驚くべきことに、男は諦めたかのように指の力を抜き、こちらが油断したその一瞬の隙に、それを奪い自分の口へと運んだのだ。

フェイントか。これはかなりの強敵である。

暗闇の中、ポップコーンを巡る無言の心理戦が幕を開けた。

男の手が伸びてくれば、私はそれをブロックするように手を動かす。

しかし男は、チェスプレイヤーのような先読みの力で、私のディフェンスを軽々と回避していく。こんな視界の悪いところでよく避けられるものだ。

もはや映画なんて見ていなかった。

視界の端で爆発するヘリコプターを背景に、私と男の手はバケツの中で華麗なダンスを踊り続けている。

気づけばバケツの底が見え始めていた。

そして最後のポップコーン。セオリー通りであれば、それは上からかけられた大量のキャラメルがたまっている中に輝く極上の一粒。

私と男の手が、同時にその一粒に向かってトップスピードで突き進んだ。

ガシッ。

暗闇の中で、二つの手が完全に噛み合った。

私は男の、少しカサついた手の甲をがっちりと掴んでいた。

男もまた、私の指を掴み返している。

スクリーンでは、主人公と宿敵が激しい肉弾戦を繰り広げ、躍動的なBGMが流れていた。

私たちは互いに手を握り合ったまま、微動だにしない。

数秒の沈黙の後、男がゆっくりと私の手を引き寄せた。

まさか、ロマンスの始まりか。

いや、男はただ、私の手ごとポップコーンを口に運ぼうとしていた。

何という荒技。こいつ、食欲の化身か。

もちろん負けるわけにはいかない。

私は渾身の力で腕を引き寄せ、敵と同じ方法で、その最後のポップコーンを自分の口に放り込んだ。

勝った!

ほどなくして、映画のエンドロールが終わり、場内の照明がパッと明るくなった。

私はついに、この大胆不敵な泥棒の顔を拝む時が来たと、身構えて右隣を見た。

そこには――誰もいなかった。いた形跡すらなかった。

『〇〇市のあの古い映画館、特にシアター4はお化けが出るらしいよ』

SNSのくだらない書き込みを思い出した。私は空のポップコーンのバケツを抱えたまま、呆然とする。

やがて清掃員に「すみません、清掃があるのでそろそろ……」と、申し訳なさそうに声をかけられ、ハッと我に返った。

どうやら映画もポップコーンも、時間すら無駄にしてしまったらしい。

「ああ。あなた、それは……運が悪かったですね」

清掃員は私のポップコーンのバケツを見て、同情するような表情でうなずいた。

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