オフィスの休憩室で、私と同僚の佐藤さん、後輩の鈴木くんが弁当を食べていた。
そこに、派遣社員の三諸さんが「ちょっと聞いてください」とお弁当を持って加わってきた。
彼女の顔を見た瞬間、私たちの箸がいっせいに止まった。
三諸さんの左の頬に、ファンデーションでは隠しきれない大きな紫色のあざができていたからだ。
休憩室の空気が一瞬で凍りつき、私たちは家庭内暴力などの不穏な想像を頭に浮かべた。
そういえば、三諸さんはよくこの手の怪我をしていた。こんなに大きなあざを作ってきたのは初めてだが――
「三諸さん、その顔どうしたの」と佐藤さんが声を震わせると、彼女は「あ……その、まぁ、派手に転んじゃって」と笑った。
それはいかにもDV被害者が使う定番のごまかしのセリフで、私たちの疑念はますます深まった。
すると三諸さんはお弁当を開けながら、信じられないほどあっけらかんとした調子で話し始めた。
「DV被害って加害者が悪いのは前提ですが、私の場合は本当に私が全面的に悪いんですよ」
「いや! それはね……」
佐藤さんが立ち上がる。私も同じ気持ちだ。それは加害者に洗脳されている。
しかし三諸さんは落ち着いた様子で佐藤さんをいさめるように手のひらを向ける。
「実は私、ものすごく強力な怨霊がついているんです」
怨霊という場違いな単語に私たちが呆気にとられていると、隣の佐藤さんの体がこわばったように固まった。
彼女は虚ろな目で三諸さんを見つめると、恐ろしい速さでその頬をスパーンとビンタした。
音が響き、佐藤さんはハッと我に返って「ごめんなさい。体が勝手に……」と震え出した。
すると今度は対面の鈴木くんが立ち上がり、三諸さんの逆の頬を容赦なくバチーンとビンタした。
鈴木くんも自分の手を見つめ、「嘘だろ。ごめん。なんで……?」と呆然と立ち尽くした。
私は恐怖を覚えて逃げ出そうとしたが、その瞬間、背中を冷たい何かに強烈に押し出された。
そして私の右腕が脳の命令を完全に無視して跳ね上がり、三諸さんの額をペシッと力任せに叩いてしまった。
私だけなんか加害の仕方が変だなと場違いに思った。お笑い芸人のツッコミみたいだったけど。
私たちは全員、無抵抗の人間を勝手に加害してしまったという恐ろしい事実にただ青ざめた。
これこそが彼女の言う怨霊の仕業なのかと、自分の体を乗っ取られた不気味な感覚に戦慄する。
三諸さんは3発のビンタをくらって顔を真っ赤にしながら「痛いですが、これでいいんです」と言った。
彼女は怒る風でもなく、どこか納得したような、妙にすっきりとした表情を浮かべていた。
「本当に申し訳ない、でも今のは意思じゃなくて」と私が弁明すると、三諸さんは優しく微笑んだ。
「みなさんは悪くないんです、全部私の前世の行いが良くなかったと占い師に言われまして」
彼女によると、前世は傲慢な貴族で、部下や領民を見つけるたびに理不尽な扱いをした極悪人だったらしい。
その被害者たちの怨念が現在の彼女に取り憑き、「周囲の人間に理不尽に叩かれる」という罰を与えているのだという。
「だから私の近くにいる人は、その怨霊の力で強制的に罰の執行人に選ばれてしまうんですよ」
三諸さんは冷めた唐揚げを口に運びながら、自分が前世のカルマの罰を受けているのだと完全に思い込んでいた。
しかし、無理やり傷害事件の加害者に仕立て上げられた私たちにとっては、たまったものではない。
「そんなの、オカルトのせいで僕たちが前科者になったらどうするんですか」と鈴木くんが憤慨した。
今起こったことをすべて録画して、しかるべき場所に持っていけば、私たちは立派な犯罪者として扱われる。
いくら操られたと主張したところで、現代の法律がそんなオカルト現象を認めるはずもない。自分の意思を汚された事実がひたすら不快だった。
「本当にごめんなさい、でもこれは怨霊の自動執行システムなので私にも止められないんです」
三諸さんは縮こまりつつも、やはりどこか他人事のようなあっけらかんとした態度を崩さなかった。
被害者のはずの彼女が最もこの状況に納得しているという、どうしようもない不条理。
深刻な暴力を心配していた緊張感は、いつの間にか、理不尽な迷惑に対する深い疲弊感へと変わっていた。
「あの、三諸さん、私たちの精神衛生のために、明日からランチは席を離れて食べてもいいかしら」
佐藤さんが直接要求すると、三諸さんは「そうですね、前世の私は本当にロクデナシでしたから」と深く頷いた。
そう言って彼女はお茶を飲み干し、午後の業務に戻るためあっさりと席を立った。
きっと彼女はこのような扱いにも慣れきっているのだろう。
残された私たちは、まだ微かに痺れている自分たちの右手を見つめながら、深いため息をついた。
明日からオフィスですれ違うたびに、自分の手をポケットの奥深くに固定しなければならないだろう。
善良な市民がいつ加害者へ変貌させられるか分からないという、奇妙でひたすらに迷惑な日常が始まったのだった。


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