#628 時の器

ちいさな物語

遠藤はいつも、スマートウォッチの画面に表示されるデジタル時計と睨み合っていた。

次のアポイントまであと十四分二十五秒、資料の修正に使えるのはわずか八分四十八秒。

彼の頭の中には分刻み、いや秒刻みの予定表が広がっていた。

無駄な時間は一秒たりとも存在してはならず、すべての行動は効率という名の天秤にかけられる。そして不要と判断されたものは容赦なく切り捨てる。

食事はゼリー状の栄養食で済ませ、移動中は常に倍速でビジネスニュースを聞く。

「時間がない」というのが、彼の口癖であり、彼を突き動かす唯一の原動力でもあった。

そんなある日の夜、激しい雨が降る中、遠藤はオフィスを出た。

駅へと急いでいたが、工事中の看板を避けるために普段は通らない細い路地へと足を踏み入れた。

いつも同じ道を通るのがさまざまな面で効率的だが、さすがの遠藤も工事中の道を突っ切るような真似はできない。

その細い路地の街灯の光も届かないような暗がりに、ぽつんと琥珀色の光を放つ店があった。

古い木製のドアには、真鍮のプレートで「時の器」と刻まれている。

チョコレート専門店、と小さな文字で添えられていた。

雨の勢いが増してきた。

濡れて風邪を引くのはもっとも効率に影響する。医者へ行く時間、薬を飲む時間、場合によっては仕事を休んで睡眠をとらなくてはならなくなる。

そんなことになっては秒刻みの予定表はむちゃくちゃだ。

遠藤は雨宿りを兼ねて、目の前のドアを押し開けた。

カラン、と来客を知らせるベルが店内に響き渡る。

駅前の喧騒が嘘のように消え去り、そこには濃厚なカカオの香りが満ちていた。

ガラスのショーケースの中には、美しいチョコレートが整然と並んでいる。

しかし、その下に添えられたラベルは、およそ菓子店に似つかわしくないものばかりだった。

「一九九八年七月の夕暮れ」「二〇一五年三月の雨宿り」「二〇二二年十月の居眠り」

遠藤は眉をひそめ、ショーケースを覗き込んだ。

「いらっしゃいませ」と、奥から仕立ての良いエプロンを着た上品な紳士が現れた。

遠藤は思わず尋ねた。「この不思議な名前は、一体どういう意味ですか」

彼は穏やかに微笑み、眼鏡の奥の目を細めた。

「ここは、人々が『無駄だ』と思って切り捨ててしまった時間を買い取り、チョコレートに仕立てる店です」

「時間を……チョコレートに?」

「左様でございます。効率を求めるあまり捨ててしまった贅沢な時間が、ここへ流れ着くのです」

「そんな時間が贅沢だって?」

遠藤は鼻で笑おうとしたが、チョコレートから漂う香りはあまりにも魅惑的だった。

彼は夢遊病者のように一番手前にあった小箱を指差した。

ラベルには「一九九五年の秋晴れ」と書かれている。それは遠藤が生まれた年だった。

「これを一粒、いただけますか」

紳士はたった一粒のチョコレートを丁寧に小さな箱に入れ、それを包装紙に包み、さらに紙袋に入れて遠藤に手渡した。

代金は驚くほど高価だったが、遠藤はなぜかこれを手に入れなければならないような衝動に駆られていた。

これは自分に必要なものだと直感した。

店を出ると、雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。傘がなくてもほとんど濡れない。

駅のホームのベンチに腰掛け、遠藤は静かに紙袋を開けた。

中から現れたのは、深い漆黒に輝く立方体のチョコレートだった。まるで美術品のように美しい。

彼はそれをそっと舌の上にのせ、ゆっくりと口の中で溶かした。噛み砕くのはもったいないような気がしていた。

感じたのはカカオの深い苦味だけではなかった。

鮮烈な光景が頭の中で広がっていく。

どこまでも高く澄み渡った青空の青さ、どこかの庭から漂うキンモクセイの甘い香り。

通学路で、ただ雲が流れるのを眺めていた幼い頃の記憶が溢れ出してきた。

あの頃の自分は、時計の針なんてまったく気にしていなかった。

ただ世界が美しく、時間が無限にあることを、全身で信じていた。

胸の奥が熱くなり、遠藤の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

自分は一体、何をそんなに急いでいたのだろうか。

効率よく生きるために、人生の最も素晴らしい部分を、自ら切り売りしていたように感じる。

終電のベルが響く中、遠藤は滑り込んできた電車に乗り込んだ。

車窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ柔らかくなっているように見えた。

翌朝、遠藤はいつもより十五分早く家を出た。

駅までの道を、スマートウォッチを見ずに、周囲の景色を眺めながらゆっくりと歩いた。

オフィスに着くと、いつものように慌ただしい空気が流れていた。

しかし、遠藤は部下たちが「昨日のテレビ、見たか?」「ああ、見た見た」と話をしているところで足を止め、「へえ、どんな番組?」と会話に入った。

部下たちは柔和な笑みを浮かべる遠藤を面食らった様な顔で見る。

「あの――時間、大丈夫ですか?」

「ああ、まだアポイントの時間まで十三分くらいある」

それから、部下たちは思い出したかのように、話していた内容を教えてくれる。

「新ドラマの『シートベルト』の主役の俳優ってわかりますか? 彼が番宣でバラエティ番組に出てて――」

「そうなんですよ。そこで、煙がばーって出てきて。めっちゃ笑えるんですよ」

もう一人の部下も番組の見どころを丁寧に説明してくれる。

遠藤も「そのドラマおもしろいのか? 今度見てみよう」と返し、その何気ない時間を心から楽しんだ。

デスクに戻り、ふと上着のポケットに違和感を覚えた。手を入れると、小さな、硬いものに触れた。

取り出してみると、それはあのチョコレートの箱だった。

遠藤はクスッと笑い、それをそっと引き出しの奥へとしまい込んだ。

いつかまた、本当に時間を見失いそうになったときのために、大切にとっておこうと思いながら。

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