ある朝、坂本が目を覚ますと、六畳間の真ん中に白い洗面器が置かれていた。
それはいたって平凡な、どこにでも売っているプラスチック製の洗面器だった。
ただ一つ奇妙だったのは、その中に澄んだ水がなみなみと張られていることだった。
坂本は首を傾げながら、洗面器を持ち上げて片付けようとした。
しかし、洗面器は床に固定されているわけでもないのに、びくとも動かなかった。
まるで、その小さな器の中に、宇宙規模の質量が凝縮されているかのようだった。
坂本は台所からお玉を持ってきて、洗面器の水をすくい、シンクに捨ててみた。
水が減れば持ち上がるのではないかと考えたのだ。
一杯、二杯、三杯とすくってみたが、洗面器の水位はなぜか一ミリも下がらなかった。
それどころか、シンクに流したはずの水は、排水口に吸い込まれる前に消滅していった。
洗面器に戻っている?
坂本はあきらめて、洗面器の前にあぐらをかいて座り込んだ。
「なぜ、ここに洗面器があるのだろう」
彼は声に出してつぶやいてみたが、洗面器が答えるはずもなかった。
彼は役所の市民相談窓口に電話をかけてみることにした。
「あの、部屋の真ん中に動かない洗面器があるのですが」
電話口の職員は、退屈そうな声で静かに答えた。
「それは洗面器の形をした、名付けえぬ不条理ですね」
「不条理、ですか」
「はい、洗面器とは本来、何かを洗うための道具に過ぎません」
「ええ、そうですね」
「しかし、目的を失った道具は、時として純粋な存在そのものとしてそこへ固定されるのです」
職員の言葉は、坂本の頭をひどく混乱させた。
「ええと、つまり、片付けるにはどうすればいいのですか」
「どうもしなくて結構です。洗面器は洗面器として、そこに在るだけですから」
電話は一方的に切られ、部屋には再び静寂が戻った。
午後になり、友人の木村が部屋に遊びにやってきた。
木村は大学院で哲学を専攻している男だった。
彼は部屋の中央の洗面器を見るなり、深く感心したように顎をさすった。
「道具としての洗面器ではなく、存在そのものとしての洗面器だな、坂本。これはいいぞ」
「何を言っているんだ。邪魔だよ」
「道具はその有用性を失ったとき、初めてその存在の剥き出しの姿を現すんだよ」
「剥き出しすぎて邪魔なんだよ」
「邪魔だと思うのは、君がまだ効率という病に冒されている証拠さ」
「効率的な方がいいに決まってるだろ」
木村は、どこからかポテトチップスを一枚取り出し、洗面器の水面に落とそうとした。
しかし、ポテトチップスが水面に触れた瞬間、それは音もなく消え去った。
水面は何事もなかったかのように、再び静かに張り詰めている。
木村は目を見開き、「存在の深淵が、ポテトチップスを拒絶した」と言い、その後もブツブツと何かつぶやきながら帰っていった。
坂本は思った。
哲学を勉強するとああなっちまうのか……。
それからの日々、坂本は部屋の真ん中に洗面器のあるわずらわしい日常を受け入れざるを得なかった。
部屋を移動するときは、常に洗面器をまたがなければならなかった。
彼はその奇妙なステップを、「洗面器ロンド」と名付け、密かに楽しんだ。
テレビを見るときも、寝転がるときも、視界の中には必ず白いプラスチックの円があった。
数週間が経つと、坂本はその存在に対して、奇妙な畏敬の念を抱き始めた。
彼は洗面器の水をじっと見つめる時間が、一日の大半を占めるようになっていった。
これが瞑想か。
水面は、部屋の蛍光灯の光を反射して、まるで凝固した時間のように静まり返っている。
ある夜、坂本は洗面器の底に、かすかな光の粒が動いているのを見つけた。
顔を限界まで近づけてのぞき込んでみると、そこには広大な星空が広がっていた。
いや、それは星空ではなく、無数の小さな都市の灯りだった。
豆粒のような人々が、せわしなく行き交い、車が走り、ビルが立ち並んでいる。
それは坂本が暮らしている、この現実の都市と寸分違わない光景だった。
坂本がさらに目を凝らすと、水の中の都市の真ん中にも、小さな白い点が見えた。
それは、彼が今見つめているものと全く同じ、小さな洗面器だった。
「世界は、巨大な洗面器の入れ子構造なのかもしれない」
坂本は、自分が宇宙の決定的な秘密に触れてしまったような戦慄を覚えた。
器とは、中身が空であることによってのみ、その存在理由を証明する。
しかし、この洗面器は最初から水で満たされており、何も受け入れる余地がない。
満たされているのに、何もないのと同じ。
それは、意味という病に冒された人間に対する、静かな批評のようでもあった。
坂本は、洗面器の前に正座し、そっと水面に指先を触れてみた。
水面はかすかに揺れたが、指は水の中に沈むことなく、冷たいガラスのような感触だけが伝わってきた。
「お前は、私に何を求めているんだ」
坂本が問いかけると、水面が一瞬、激しく波立った。
空間全体がかすかに歪んだような錯覚を覚え、坂本は息を呑んだ。
そして、水の中から、小さな、しかし明瞭な音が響いてきた。
それは、誰かが水面の向こう側から何かを伝えようとしているようなくぐもった水音だった。
しかし、もちろん水面には誰もおらず、ただ音だけが部屋の空気を震わせている。
誰かが溺れているみたいだな。
坂本は、その光景に恐怖を覚えるよりも先に、深い宇宙の神秘に包まれたような気がしていた。
意味などなくてもいい、理由などなくてもいいのだ。
この不条理な器が存在すること自体が、最大の真実なのだから。
翌朝、坂本が目を覚ますと、洗面器は跡形もなく消え去っていた。
畳の上には、水に濡れた跡さえ残っていなかった。
坂本は部屋の真ん中に立ち、洗面器のあった空間を見つめた。
洗面器が消えたことで、部屋は以前よりもずっと広く、そしてひどく退屈に感じられた。
彼は自分の両手を見つめ、それから洗面台へと向かった。
蛇口をひねり、洗面器に水をためる。
そして、自分の顔をその冷たい水の中に深く沈めた。
水の中で目を開けると、そこには何の都市もなく、ただ透明な無が広がっていた。
坂本は顔を上げ、濡れたままの顔で静かに微笑んだ。
彼は今、自分が巨大な洗面器の底で、静かに満たされているのを感じていた。


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