#643 待合室の扉

ちいさな物語

僕には、幼い頃からずっと誰にも言えない秘密がある。

言えないというか、言ってもどうせ「ただの夢だ」と言われるだけの秘密だ。

人は誰でも寝ている間に夢を見るけれど、夢に入る前に必ず通される場所があることを知っている人はいない。

そこは、驚くほど真っ白な待合室だ。

壁も、床も、整然と並べられたパイプ椅子も、すべてが病院の待合室のような清潔さをたたえ、無機質な白に包まれている。

部屋にはいつも、無数の人々が座って自分の順番を待っている。

スーツを着たビジネスマンもいれば、ランドセルを背負った小学生もいるし、外国人もいる。

けれど、誰も声を掛け合おうとはしない。

みんなぼんやりと前を見つめ、静かに呼吸をしているだけだ。

本来なら目覚めたときに、この場所の記憶を失ってしまうらしい。

けれど、なぜか僕だけは、子供の頃からこの待合室の光景をはっきりと覚えているんだ。

待合室の正面には大きなスピーカーがあって、ときどき柔らかい「ピンポン」というチャイムが鳴る。

そして無機質なアナウンスが、誰かの名前や番号を淡々と呼び出すんだ。

名前を呼ばれた人が立ち上がり、壁に突然現れる扉をくぐると、そこでようやく夢が始まる。

現れる扉は呼ばれた人によってぜんぜん違う。古びた木戸だったり、お城にあるような豪華で重厚な扉だったり、マンションの鉄製の玄関扉みたいだったりする。

僕の扉も毎回違っている。その扉の様子がこれから見る夢のイメージとつながっていることに気づくまで、そう時間はかからなかった。

扉の向こうに広がるのは、いつも通りの支離滅裂な世界だ。

空を飛ぶ夢だったり、昼間に考えたくだらない妄想や、ささいな悩みがそのまま再現される夢だったり、脈絡もない大冒険だったりする。

朝起きたとき、僕の頭にはぼんやりした夢の断片と一緒に、あの真っ白な待合室の記憶が鮮明に残っている。そう、あの待合室だけ「鮮明に」だ。

待合室にいるのは見知らぬ人ばかりだけれど、ごくたまに知っている顔を見かけることがある。

高校時代の友人だったり、近所のコンビニの店員さんだったりする。

以前、気になって隣に座った知り合いに「こんにちは」と話しかけてみたことがある。

でも、相手はただ焦点の定まらない目で僕を見るだけで、何も答えてはくれなかった。

やっぱり彼らは、自分が今どこにいて何をしているのかを意識できていないのだと思う。

そんなことが何年も続いて、僕にとって夢を見る前に待合室で待つことは、歯磨きと同じくらい日常の一部分になっていた。

昨日の夜までは――

昨夜、いつものように白い椅子に座って待っていると、少し離れた席に懐かしい姿を見つけた。

それは、三年前から病気でずっと意識不明のまま入院している、幼馴染のタカシだった。

タカシは以前より少し痩せた姿でパイプ椅子に腰かけていた。何度かお見舞いに行ったことがあるが、ベッドで目を閉じている姿以外を見たのは久しぶりだった。

僕は驚いて立ち上がり、タカシの隣の席へ駆け寄った。

「タカシ、お前、ちゃんと夢を見るのか? 僕のことがわかるか?」

声をかけると、タカシはゆっくりと顔を上げた。

その目は、いつもの待合室の人々と同じように焦点が合っていなくて、僕の言葉を理解していないようだった。

「お願いだ。返事をしてくれよ」

僕がいくら訴えかけても、彼はただぼんやりとこちらを見ているだけだった。

そのとき、部屋全体にいつもより少し低い音色のチャイムが響き渡った。

『ミクニタカシ様、どうぞ』

スピーカーからのアナウンスを聞いて、タカシは静かに立ち上がった。

いつもなら、夢へと続く様々な意匠の扉が現れるはずだった。

けれど、タカシの目の前に現れたのは、見たこともない透明な扉だった。まるでガラスの扉のようで、透けて見える向こう側にはたくさんの花が咲いていた。

タカシはその扉に向かって、ゆっくりと歩き出した。

僕は胸騒ぎがして、思わず彼の腕をつかんだ。待合室で待っている人に触れたのはこれが初めてだった。

「待てよ! その扉、ちょっと変だぞ。みんなのと違う!」

その瞬間、タカシがくるりと振り向いた。

それまでのぼんやりとした表情が嘘のように、彼の瞳にはっきりとした光が宿っていた。

タカシは僕の顔を真っ直ぐに見つめると、悪戯が成功したときのような懐かしい笑顔を浮かべた。

「今までありがとう。ベッドの横でお前が話したこと、ちゃんと聞こえてたよ。返事ができなくて悪かったな」

タカシはそう言うと、僕の手をそっと振り払った。

そして僕が言葉を返す前に、ゆっくりとその扉の向こう側へと消えていった。

その直後、僕の名前がアナウンスで呼ばれ、僕は先ほどのできごとについて考える間もなく、夢の中に放り込まれた。

翌朝、アラームの音で目を覚ましたとき、スマートフォンの画面に母からの着信履歴が残っていた。

電話を掛け直すと、母は静かな声で教えてくれた。

昨日の夜遅く、タカシが息を引き取ったそうだ。

僕は涙を拭いながら、自室の窓から澄み切った青空を見上げた。

あの待合室は、ただ夢を見るための準備をする場所ではなかったのだと思う。

人は眠っている間、魂の深いところで互いに繋がっている。

もしまた誰か大切な人が透明な扉をくぐろうとするときに、本当の意味での最後の言葉をかけられるのは僕くらいなのかもしれない。

これがあの待合室での記憶を持っていてよかったと思えた最初のできごとだった。

今夜もきっと、僕はあの真っ白な部屋に通される。

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