窓の外では、地表を覆う赤茶けた土と、低く垂れこめた灰色の雲が混ざり合っていた。
この景色を見るのも最後になる。
火星行きの最終移住便、第402便の搭乗手続きを告げるアナウンスが、無駄に広い出発ロビーに低く響き渡る。
すでに地球の人口の99パーセント以上が新しい故郷へと旅立ち、このメガポートに残されているのは、ほんのわずかな居残り組と、その居残り組を支えてきた私のようなエッセンシャルワーカーだった。
足元に置いた最小限の荷物を確かめ、ふと壁際へ視線をやると、そこには薄暗い影に埋もれるようにして一台の筐体がたたずんでいた。
半世紀以上も昔に作られたであろう、旧式の自動販売機だった。
電子決済のパネルは半ば剥がれ落ち、動いている様子はない。コイン投入口の横には「現金のみ」という古めかしいステッカーが擦り切れた状態で貼られていた。
「現金のみ? コインしか使えないってこと?」
私は思わずつぶやいていた。現金というと祖父母が見せてくれたコインのことしか知らない。ほぼ歴史の中の産物だ。
それに最近では缶入り飲料なども一般的には売っていない。よくあるレトロ趣味の一環として、たまに流行るくらいだ。
今では、水分も栄養も、すべて手首のデバイスからチューブで直接摂取するのが主流だ。
私は吸い寄せられるように、その自販機の前に立った。
サンプル棚の片隅に、塗料のはげかかった円柱状の缶がいくつか飾られている。
その中の「濃厚ミルクティ」と書かれた文字は、蛍光灯のチラつく光の下で惨めなほど褪色していた。この区画だけ蛍光灯という過去の遺物が残っているのもその古びた光景によく馴染んでいた。
――実は今、現金を持っている。
祖父母が「これから価値が出るはずだから持っていなさい」とたくさんくれた。それらを手放しがたく感じ、荷物にも入れてきてしまったのだ。
近年、急激に人類の寿命が伸びた。
若い姿のまま長く生きられるようになったのは、ちょうど私たちの世代くらいからだった。コインは少し重たいが祖父母との思い出の品として持っておくのも悪くない。
荷物を探って一番大きな硬貨を手にした。大きいのだから価値があるだろう。足らなければ、もっと入れればいい。
本当はよく見て金額を確認すればよいのだが、それは面倒だった。
指先で金属の冷たさを確かめながら投入口へコインを滑り込ませると、機械の奥で重々しい歯車が回り出すような音がした。
ガコン、と響いた鈍い音は、空いたロビー全体に小さくこだました。続いて「お釣り」と書かれたところに硬貨がガシャンガシャンと落ちてくる。
数人がこちらを見たが、すぐに興味を失ったように視線を戻した。
取り出し口から拾い上げたアルミ缶は、拍子抜けするほど冷えておらず、生ぬるい温もりを帯びていた。
「飲んでも大丈夫なのか?」
念のため日付を確認すると思っていたより新しい。この製造業者は移住ぎりぎりまでこの古臭い缶飲料を製造し続けていたのか。
そしておそらく私が最後の消費者になることだろう。
プルトップに指をかけ、力を込める。
シュッと小さく空気が抜ける音がして、甘い香りが一気に鼻腔を突いた。
口に含むと、耐えがたいほどの甘さが舌の上に広がった。
合成甘味料と人工香料の強烈な主張、そしてわずかに残る茶葉のエキス。
それは効率と機能性を重視する現代の食事からは完全に排除された、かつての地球の贅沢の残骸だった。
幼い頃、雨の日に母に連れられて行った古い公園のベンチを思い出す。
濡れた土の匂いと、缶から立ち上る湯気。
「火星にはね、雨は降らないのよ」
母が笑いながら言っていた言葉が、何十年も経った今になって唐突に蘇ってきた。
いま私たちが向かおうとしている赤色の大地には、整備された都市と完璧に管理された大気がある。
しかしそこには、こんな無駄に甘い飲み物も、自販機のボタンを押す無骨な感覚も、雨に濡れた土の匂いもない。
私は二口目を含み、じっくりと喉へと流し込んだ。
胃のあたりがじわじわと温かくなっていくのを感じた。
これが地球最後のミルクティになる。
振り返ると、搭乗ゲートの光が青く点滅を始めていた。
私以外の乗客たちが、無機質な足音を立ててゲートへと吸い込まれていく。
私は空になった缶を手のひらで握りつぶした。
ペコンと軽い音を立てて形を崩した金属の塊は、地球という惑星で私が最後につくったゴミになった。
自販機の横に設置されたリサイクルボックスにそれを投げ入れると、ガランと乾いた音がして闇に消えた。
「第402便にご搭乗のお客様、ゲートへお急ぎください」
呼びかけの声に頷き、私は足を踏み出した。
火星へ行ってからも、この甘ったるい後味だけは、何度も思い出すような気がした。


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