廃墟を見て回るのが、私の唯一の趣味だった。
崩れた壁、割れた窓、誰もいない廊下。
終わってしまった場所にだけ漂う静けさが、昔から好きだった。
その谷の噂を聞いたのは、同じ趣味を持つ男からだった。
「地図に載っていない谷に、誰も知らない廃墟が何十棟も並んでいるらしい」
半信半疑のまま、私は週末に山へ向かった。
廃墟好きの間でその手の与太話はめずらしくないが、語る男のやけに真剣な目つきが、どうにも気になった。
獣道を三時間ほど歩いた先で、ふいに視界がひらけた。
噂はどうやら本当だったらしい。
本当に谷の底に、廃墟がずらりと並んでいた。ただ、何かがおかしかった。
廃墟というのは、本来ばらばらに朽ちていくものだ。
それなのに、目の前の廃墟たちは畑の作物のように等間隔に整列していた。
しかも谷の手前から奥に向かって、崩れたものから原型をきちんととどめているものまで、きれいに順番に並んでいる。
手前にあるのは床と柱だけの骨組み。
奥にあるのは、今すぐ人が住めそうなほど整った建物だった。
壁は白く、窓ガラスには曇りひとつなく、新築だと言われても誰も疑わないだろう。
まるで、廃墟が少しずつ育っているかのように。いや、逆に崩れていくさまなのか?
私は、死体が朽ちていく過程を描いた九相図を連想してぞっとした。
呆然と立ち尽くしていると、奥から麦わら帽子の老人が歩いてきた。
老人は手に、年季の入ったじょうろを提げていた。
「人が来るのは久しぶりだな」と老人は笑った。
「この建物はいったいなんなんですか」
「見ての通り、苗床だよ。廃墟の苗床だ」
老人の話はこうだった。
世間では、建物が先にあって、朽ちた果てに廃墟になると思われている。
だが本当は、逆の場合もあるのだという。
深く愛された建物が壊されると、その記憶は種になって、風に乗ってどこかに落ちる。
種はまず、小さな廃墟として芽を出す。
崩れた壁から育ちはじめ、何十年もかけて窓が入り、屋根が張り、扉がつき、やがて一棟の建物として実る。
「実った建物は、どうなるんです」
「夜のうちに、世界のどこかへ運ばれていくんだよ。あんたも見たことがあるだろう。いつ建ったのか、誰が建てたのか、近所の誰も思い出せない建物を」
あった――だろうか? 私は言葉を失った。
あったかもしれない。見慣れたはずの町に「こんな建物、あったっけ」と首をかしげる建物が。
古い記録をいくらたどっても、誰が建てたのかわからない家の話を聞いたこともある。
ただの記録漏れか、杜撰な管理のせいだろうと考えていた。
老人はじょうろで手前の小さな廃墟に水をやりながら続けた。
「あんたら廃墟好きが外の世界で見ているのは、死んでいく建物だ。けどここにあるのは、生まれていく途中の建物さ。同じ姿でも、まるで逆なんだよ」
帰り際、老人は谷の隅を指さした。
そこには、芽を出したばかりの、本当に小さな廃墟があった。
焦げた跡の残る、見覚えのある昇降口。
私が子供の頃に火事で失われた、母校だった。
「ずいぶん愛されとったんだなあ。芽が元気だ」
老人はうれしそうに目を細めた。
「実るまで、あと五十年というところか。どこの町に運ばれるかは、儂にもわからんがね」
「そんなにかかりますか」
ふと、この老人はいつからここで廃墟の世話をしているのかという疑問が浮かんだ。
なにしろ、実るのに何十年とかかる建物だ。この老人は人ではないのかもしれない……。
あれから私は、廃墟めぐりをやめてはいない。
ただ、崩れた壁を見るたびに思うのだ。
これは終わりの姿ではなく、どこかの谷に落ちる種なのかもしれない、と。
そして知らない町で真新しい建物を見かけると、つい別の場所で育った建物ではないかと見入ってしまう。
五十年後、私はこの世にいるかどうかわからない。
けれどいつかどこかの町で、子供たちがあの母校の昇降口をくぐる朝が来る。
そう思うと、廃墟の静けさが、少しだけあたたかいものに感じられるのだ。


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