#645 日記帳のつながり

ちいさな物語

その日記帳は、神保町の路地裏にある古書店で、投げ売りされていたワゴンの底に眠っていた。

日記帳などが売られているものかと不思議に思われるかもしれないが、これが稀にあるのである。

遺品整理などで大量の書籍をそのまま古書店に売ると、そういった物が混ざっていることがある。

古書店側でも好事家たちが、たまに買っていくことを知っているので、気が向けば売り場に出す。

その日記帳の革張りの表紙はひどく擦り切れ、真鍮の留め具は錆びついて用をなしていなかった。

僕はなぜか惹かれ、百円で購入して自分のアパートへと持ち帰った。昔の日記は当時の風俗などを知ることができて案外とおもしろいのだ。

ページを開くと、端正な万年筆の青いインクで、ある男の日々の営みが綴られていた。

名前は書かれていなかったが、どうやら都内の文房具店に勤める独身の男性であるらしかった。

見た目からかなり古いものを期待していたが、どうやらそこまで古いものではなさそうだった。

最初の数ページは、上司の愚痴や、昼食に食べたオムライスの味など、極めて退屈な内容ばかりだった。

異変に気づいたのは、日記を読み始めてから三日目の夜のことだった。

「四月十二日。通勤電車のシートに、誰かが文庫本を置き忘れていた。栞の代わりに、青いトランプのダイヤのエースが挟まっていた」

その記述を目にした瞬間、僕の背中に冷たい汗が流れた。

まさにその日の朝、僕が中央線の車内で拾い、駅員に届けた文庫本がまったく同じ状態だったからだ。

偶然にしては出来すぎている。いやいや、偶然だと僕は自分に言い聞かせ、次のページをめくった。

「四月十三日。雨が降る中、ビニール傘の骨が一本だけ折れた。それからお気に入りのネクタイに泥が跳ねてしまい憂鬱だった」

翌日、僕の身に起こった出来事は、寸分の狂いもなくその日記の通りだった。

お気に入りの紺色のネクタイは、通り過ぎたトラックの水跳ねによって、無残なシミを作っていた。

この日記、僕の日常を追い越して、未来を予言しているのか。

あまりに荒唐無稽な発想だと笑い飛ばしたかったが、薄気味悪い恐怖とそれ以上の奇妙な高揚感が、僕の胸を支配し始めた。

日記を先読みすれば、未来に起こる不運を回避できるかもしれない、と僕は考えた。

「四月十四日。階段で足を踏み外し、右足首をひどく捻挫した。しばらくは松葉杖の生活になりそうだ」

その記述を読んだ僕は、翌日、一歩も家から出ないことを決意した。

これはある意味、実験でもあった。

会社には急病だと嘘の連絡を入れ、ベッドの上でじっと過ごす。

これなら、階段を踏み外すことなどあり得ないはずだった。

しかし午後三時、突然の激しい揺れが部屋を襲った。

地震だった。

これは結構、大きいぞ。しかも長い。危ないかもしれない。

慌てて部屋を飛び出そうとした僕は、見事に予言通り階段で足を踏み外し、右足首を痛めた。

激しい痛みが走り、僕はその場にうずくまった。

幸い、踏み外したのは階段の最後の一段で、上から転がり落ちて命の危機にさらされるというようなことにはならなかった。

病院で下された診断は、右足首の重度の捻挫だった。医師からはしばらく松葉杖を使うように言われた。

日記の記述は、どのような手段を使っても回避できないのだと、僕は身をもって知ることになってしまった。

それからの日々、僕は日記の奴隷のようになった。

毎晩、翌日のページを開き、自分に訪れる運命を確認してから眠りについた。

もっと先の日記まで確認しておけばいいのにと思われるかもしれないが、それは不可能だった。

どうしても翌日以降のページが開かないのだ。何か糊のようなもので貼りついている。無理に剥がそうとすれば、破れてしまいそうだった。

そして良いことも、悪いことも、すべては日記の男の記述通りに進行していった。

男がおいしい珈琲を飲めば、僕も翌日、偶然見つけたカフェで最高の珈琲に出会った。

男が財布を落とせば、僕も翌日、ポケットの穴から小銭入れを紛失した。

僕たちの人生は、目に見えない強固な鎖でリンクしているようだった。

日記を読み進めるうちに、僕は日記の男に対して、奇妙な親近感を抱くようになっていた。

彼は僕であり、僕は彼だった。

しかし、終わりは突然やってきた。

五月の終わりに差し掛かったページで、日記の記述が極端に短くなったのだ。

「五月二十八日。もう書くことがない。私はすべてを理解した。この日記を読んでいる、きみの存在を」

心臓が、早鐘のように脈打ち始めた。

男は、自分の日記が誰かに読まれていることを知っていた。

恐る恐る、次のページをめくる。それが、この日記帳の最後のページだった。以降は真っ白なページが続いている。

「五月二十九日。これを読んでいるきみへ。きみは今、私の言葉をなぞるように生きている。だが、次はきみの番だ。窓の外を見てごらん」

僕は弾かれたように顔を上げ、アパートの窓の外を見た。

夜の闇の中、向かいの電柱の陰に、一人の男が立っていた。

男は僕の視線に気づくと、ゆっくりと右手をあげて手を振った。

その手には、僕が持っているものとまったく同じ、革張りの日記帳が握られていた。

男は懐から万年筆を取り出し、街灯の光の下で、日記帳に何かを書きこみ始めた。

僕は震える手で日記帳を引き寄せた。

そこには先ほどまではなかった文字が綴られている。

「さあ、今日から日記をはじめよう」

男が持っている日記帳とこの日記帳はリンクしている。

僕は操られたように引き出しから万年筆を取り出し、新しいページに今日の日付を書きこむ。

「七月六日。私は今、新しい日記を書き始めている。この言葉が誰かの明日になる」

僕は今日の出来事を丁寧に書いた。自動販売機で気に入っていた缶コーヒーが売り切れていたこと、人違いで知らない人に話しかけられたこと、駅で力士とすれ違ったこと……。

書き終えた瞬間、窓の外の男は満足そうに日記帳を閉じて闇の中へと消え去った。

日記帳のリンクは、終わらない。今度は僕が、誰かの運命を綴っていくのだ。

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