#603 扉職人の理

ちいさな物語

なあ、あんた。そこにある古びた木の扉を見てくれよ。

ただの板切れに見えるかもしれないが、こいつが完成したときには、ここから一歩踏み出すだけで遥か遠くの異国へ行けるようになるんだ。

俺はこれを作る扉職人の弟子だ。師匠は、この道では知らない者がいないほどの名工でな。

師匠の彫る模様には魔力が宿り、空間をねじ曲げて、望んだ場所へと道を通す。

だが、俺はまだその域には到底及ばない。

自分では精緻に彫り上げたと思っても、どこか一箇所、線の角度がコンマ数ミリ狂うだけで、扉の先はとんでもない場所に化けちまうんだ。

先日なんて、公爵様から「避暑地の別荘に繋がる扉を」と頼まれたのに、俺が仕上げた扉を開けた瞬間、そこには真っ青な空しか見えなかった。

それも、雲の上だ。公爵様がうっかり踏み出そうとしたから、慌てて襟首を掴んで引き戻したよ。

あのまま行っていたら、公爵様は雲の上から真っ逆さまだ。

その扉? 鳥の研究をしている連中が大喜びで買い取ってくれたよ。

だが、その前はもっとひどかった。南国の砂浜へ繋ぐはずが、扉を開けた途端に凄まじい水圧で海水が逆流してきたんだ。

俺たちは工房の中で溺れかけた。どうやら深い海の底に繋がっちまったらしい。

これもな、漁師たち数人が金を出し合って買い取っていった。無駄にならずに済んだんだが、とにかく思ったとおりにいかない。

師匠には「お前の彫る線には迷いがある。雑念を捨て、理を刻め」って毎日怒鳴られている。

「雑念」と言われても真面目に扉のことを考えて仕事をしているつもりだから、どうしていいかわからない。それに正直、俺にはその「理」ってのがまだよくわからないんだよな。

今日も今日とて、俺は新しい依頼品と向き合っている。

今回の依頼人は、遠い昔に故郷を離れたという一人暮らしのお婆さんだ。

「死ぬ前に一度だけでいいから、幼い頃に見たあの花畑が見たい」なんて泣かせることを言うもんだから、俺も気合いが入っちまった。

下書きの線を何度も引き直し、ノミを研ぎ澄まし、呼吸を整える。一彫りごとに、その場所の匂いや風の音を想像した。

しかし――

「それが雑念だ!」

師匠の怒鳴り声が工房中に響いた。俺は驚いてノミを落としてしまった。

「いいか。これは魔術だ。余計なことを考えるんじゃない」

そうか。もしかして俺は心得違いをしていたのかもしれない。

そっとノミを拾い上げる。

ただ、目的地へ通じる通路を作る。それは自分が見たこともない場所だ。だから想像なんてしちゃいけなかったんだ。

黙々と、論理的に、魔術として完成させる。

木屑が床に積もっていく。背中には師匠の厳しい視線を感じるが、不思議なほど集中できた。

数日かけてようやく彫り上がった。金色の蔦が絡まるような、我ながら美しい模様で、転送の魔術としてもきちんと筋が通っているはずだ。

扉の取っ手を握る手が震える。今度こそ、間違えちゃいけない。

俺は祈るような気持ちで、ゆっくりと扉を開いた。

そこに見えたのは、一面の銀世界だった。

「……またかよ」

思わず独り言が漏れた。花畑なんてどこにもない。あるのは、荒れ狂う吹雪と、氷に閉ざされた山脈だ。

俺は肩を落として扉を閉めようとした。だが、背後で見ていた師匠が、俺の手を制したんだ。

「待て。よく見てみろ」

師匠の指差す先、雪の下から小さな、本当に小さな青い花が顔を出していた。よく見ると同じように雪のわずかな隙間から青い花が強風にあおられていた。

「これは『氷の青花』だ。極寒の地でしか咲かない奇跡の花だぞ」

師匠は呆れたように笑いながら、俺の頭を小突いた。

「あの老婆の出身地はまさに北の果て。これが彼女の見た花畑に違いない」

「それじゃ、失敗じゃないんですか?」

俺が尋ねると、師匠は扉の向こうに手を伸ばし、その青い花をそっと摘み取って見せた。

「大成功だ」

師匠はそう言って、摘んだ花を俺に手渡した。

「この花を持って老婆のところへ行け。『注文の品が完成しました』とな。俺たちは職人なんだ。余計な感情を持つ必要はない。それは依頼者が持つべきものだ」

俺は預かった花の冷たさを掌に感じながら、自分の未熟さと、ほんの少しの自信を噛み締めた。

なあ、あんた。もしあんたがどこかへ行きたいと願うなら、俺に任せてくれないか。

もしかしたら、予定とは違う場所に辿り着くかもしれない。

でも、あんたの魂が本当に求めている場所へ、俺の「理」が導いてくれるはずだ。

……ああ、でも一応、命綱だけは準備しておいてくれよな。

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