#616 白いリレー

ちいさな物語

毎朝の通勤路は、決まりきった景色の繰り返しで退屈なものだった。

しかし、その日の朝だけは、いつもと違う出来事が起きた。私の数歩前を歩いていた女性が、ポケットから何かを落としたのだ。

それは、綺麗に折りたたまれた真っ白なハンカチだった。

私は慌ててそれを拾い上げ、「もしもし」と声をかけた。

だが、駅へと向かう人の波は激しく、彼女の背中はすぐに人混みへと消えてしまった。

彼女は毎朝同じ時間帯に、同じ路地で見かける見覚えのある人だ。明日また見かけたときに返せばいいだろうと私は考えた。

駅のしかるべき場所に預けるのが正しいとは思ったが、あの女性に直接ハンカチを返すのは、つまらない日常のちょっとしたイベントとして魅力的に感じたのだ。本当はよくないことだ。

私はハンカチを上着のポケットに大切にしまい、そのまま会社へと向かった。

翌朝、私は昨日よりも少し緊張しながら同じ路地を歩いていた。ポケットの中の白いハンカチに触れ、彼女が現れるのを待った。

しかし、その日に限って彼女の姿を見つけることはできなかった。

諦めて駅の改札を通り、ホームへの階段をのぼる。

ポケットからスマートフォンを取り出そうとしたその拍子に、一緒に白いハンカチが滑り落ちてしまった。しかし、それにまったく気づかないまま、やってきた電車に乗り込んでしまったのだった。

すぐ後ろを歩いていた男子高校生が、その様子をしっかりと見ていた。

「あ、お兄さん。ハンカチ落としたよ」と高校生は声をあげた。それは駅の喧騒に紛れて、聞こえていないようだった。彼は床からそれを拾い上げて駆け出した。

しかし、高校生の目の前で満員電車のドアは無情にも閉まってしまう。

彼は手元に残された白いハンカチを見つめ、困ったように首を傾げた。

高校生はそのハンカチを落とし物窓口に届けるつもりだった。

しかし、彼もまた自分の学校の最寄り駅に到着したとき、慌てて電車を降りようとしてそのハンカチを落としてしまった。

次にそれを拾ったのは、座席に座っていた初老の紳士だった。

老紳士は「前の高校生が落としたのだな」と確信し、急いで席を立って彼の後を追った。

だが、若者の足は速く、改札の向こうへと瞬く間に消えていく。

老紳士はため息をつき、自分の上着のポケットにそれを収めた。駅員に預けようと思ったが、こういうときに限って見当たらない。

そのうち、老紳士は自分が落とし物のハンカチを拾ったことを忘れてしまい、ポケットの浅い場所に収められたハンカチはまたひらひらと舞い落ちてしまった。

その後も、ハンカチはまるで独自の意志を持つかのように、様々な人の手を渡り歩くことになった。

リレーのバトンのように偶然に偶然が重なり、時には猫がくわえて走り、子供が交番にいく途中で転び、あちらこちらをさまよった。

とある主婦は汚れたハンカチを洗って干しておいたところ、風に飛ばされてなくしてしまった。またある中年男性は、落とし主がすぐに見つけられるようにと、目線の高さの枝に結わえたりした。

誰もが「持ち主のもとに戻れるように」と親切心から拾っては、様々な理由で見失ってしまう。

上質な白い生地だったからこそ、拾った人々も無下に扱うことができなかったのかもしれない。

そうして無数の手を経たハンカチが、再びあの駅の周辺に戻ってきたのは、最初の事件から二週間が経った朝のことだった。

私はいつも通りの時間に家を出て、いつもの路地を歩いていた。

すると、私の視界に見覚えのある背中が飛び込んできた。

二週間前にハンカチを落とした、あの女性だった。私はあの時のことを思い出し、少し胸が痛んだ。

「実はあなたのハンカチを拾ったのですが、不注意からなくしてしまいました」と謝った方がいいかもしれないと本気で悩んだ。

そのとき、強い風が吹き抜け、見覚えのある白い布地が女性の足元に落ちた。

彼女のすぐ後ろにいた若い会社員が何気ない動きでそれを拾い上げると、「あの、落としましたよ」と差し出した。

女性は驚いた表情でそのハンカチを受け取り、パッと顔を輝かせた。

「あっ、これ! ありがとうございます。なくしたのかと思っていました。でも、どうして今……」と彼女は不思議そうな顔をしている。

会社員は女性が不思議そうなのが不思議だという表情で、軽く会釈をして、そのまま駅の方へと歩き去っていった。

私はその光景を少し離れた場所から、呆然と見つめていた。

なぜか二週間前に拾ってなくしたハンカチが返ってきた。しかも、あまりにも不自然な形で。

でも、とりあえず下心から拾ってしまったハンカチが彼女の元に戻ってきてよかった。

安心はしたが、なんとなく釈然としないまま、私は駅の階段をあがっていった。

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