#619 水底からの声

ちいさな物語

有馬はここ数週間、毎晩のように同じ夢にうなされていた。

あたりは深く冷たい霧に包まれており、まるで水の中にいるかのような息苦しさがある。

その霧の向こうに、一人の若い男がいた。

男は有馬の目を真っ直ぐに見つめ、顔を真っ赤にして何かを必死に叫んでいる。

しかし、どんなに耳を澄ませても、その声は有馬の耳には届かない。ただ男の口元が、激しく、痛切に動くだけだった。

見覚えがあるような気がするのに、どうしても誰なのか思い出せない。

現実の世界で、有馬は人生最大の窮地に立たされていた。自分の不始末で、会社に多大な損失を与えてしまったのだ。

このままでは解雇は免れない。

有馬は、自分のミスを隠蔽し、優秀な後輩である長谷川賢治に押し付けようと考えていた。

賢治は有馬を深く信頼しており、処理を数日引き継いだだけなので、作業ログをうまく細工すれば彼の手落ちにできる。それを偶然を装って、誰かに見つけさせれば自分は告発者の立場も免れることができるのだ。

「すまない、賢治。だが、俺にも生活があるんだ」

そう自分に言い聞かせるたびに、胸が激しく痛んだ。これは本当にやってもいいことなのか。いいわけがないが、自分のこれからのことを考えると――思考は堂々巡りするばかりだ。

その夜も、例の夢を見た。

男の叫びはいつもより激しく、その目は涙で濡れているように見えた。有馬は男の口の動きを凝視した。何を言っているのだろう。

翌日、罪悪感に耐えかねた有馬は、実家の母親に電話をかけた。

自分は子供の頃と何も変わっていない。悪いことをする前に母親の様子を確認してしまう。何かに気づいて叱ってくれたら、あるいは――

母が有馬の口調に何かを感じ取ったのか「何かあったの?」と聞いてきたので、有馬はとっさに話題をすり替えようとした。

――とはいえ、何を話せばいいのか。ふいに夢の中の情景が頭に浮かんだ。

あの景色……そういえば、自分が幼い頃に事故にあって死にかけたという話を何度か聞いた。9歳の夏、有馬は地元の川で溺れ、九死に一生を得たことがある、と。ショックのせいで当時の記憶は曖昧だった。

「ああ、あの事故のことね。何度か話したじゃないの。あれは本当に奇跡だったわ」

母親は静かに語り始めた。

「あなたを助けてくれた若い男の人は、あなたを岸に押し上げた後、そのまま流されてしまったのよ」

母親の言葉に、有馬の背中に電気が走った。何度か聞いた話なのになぜかひっかかる。

「そういえばまだ聞いてなかった気がするんだけど……その人の、名前は?」

「確か、長谷川徹さん。まだ二十代の方だったわ。しばらくは毎年きちんとお礼をしていたんだけど、ある年から事故を思い出すと辛いからもうやめてほしいと言われてしまって……」

長谷川。

有馬は急いで、実家の物置に眠っているはずの、当時の新聞記事のスクラップを母親に探してもらった。

スマートフォンに送られてきた、色あせた新聞の画像。

そこに掲載されていた顔写真を見て、有馬は息をのんだ。

夢の中の男だった。

彼が命を懸けて自分を救ってくれたから、今の自分がある。

なぜ夢の中で見覚えがあると感じたのか。それは、後輩である賢治の顔が、その写真の青年と酷似していたからだ。

賢治は以前、父親を幼い頃に水の事故で亡くしたと言っていた気がする。

長谷川賢治は、有馬の命の恩人である長谷川徹の、実の息子だったのだ。有馬は激しい衝撃に襲われ、崩れ落ちた。

危うく恩人の息子を、自分は保身のために破滅させようとしていた。夢の中の青年は、そのことを言っていたのだ。

有馬は、夢の中の青年の口の動きをもう一度思い返した。

――生きろ。

彼は「生きろ」と言っていた。激しく口を動かし、必死に訴えていた言葉は、有馬への非難でも憎悪でもなかった。

命がけで助けた子供の行く末をまだ案じてくれていた。

有馬の目から、堰を切ったように涙があふれ出た。

水底のような暗闇から、青年は叫んでいた。自分が助けた子供と、息子が正しく生きていけるように。

翌朝、有馬は出社するとすぐに社長室のドアを叩いた。

すべてのミスは自分の責任であり、それは賢治が作業を引き継ぐ以前の問題だったこと。彼は何も悪くないことを告白した。

会社の損失は甚大なものだった。社内調査の結果、有馬は懲戒解雇処分となった。

荷物をまとめて会社を出るとき、賢治が泣きながら追いかけてきた。

「有馬さん、どうしてですか。僕がもっと確認していれば」

有馬は優しく賢治の肩を叩いた。

「いいんだ、賢治。お前は何も悪くない。お前の父親なら、きっと誇ってくれるさ」

賢治は「父親……?」と、きょとんとした顔をしたが、有馬はそれ以上何も言わずに歩き出した。

その夜、有馬は久しぶりに深く眠った。夢を見たような気がするが、それはとても穏やかなものであり、目を覚ましたときには忘れてしまっていた。

失ったものは大きいが、本当に大切なものを守ることができた。

窓から差し込む朝日は、これまでにないほど眩しく、未来を照らしていた。

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