森の影が長くなり、太陽が地平線の向こうへと沈みきった頃、私はその洋館を見つけた。
周囲には獣の鳴き声ひとつ響かず、ただ風が木々を揺らす乾いた音だけが耳を刺していた。
地図にも載っていない、およそ人が住んでいるとは思えない古びたレンガ造りの館だった。
玄関の扉はわずかに開かれており、中から温かいスープの香りが漂ってきた。
見た目は廃墟のようだが、誰かいるのだろうか。
空腹と寒さに耐えかねた私は、誘われるようにしてその重い扉を押し開いた。
廊下には灯りがともっていなかったが、奥の食堂からは柔らかいオレンジ色の光が漏れている。
おそるおそる足を踏み入れ、そっと扉の隙間から食堂をのぞき込んだ。
そこには、銀色のカトラリーが整然と並べられた長いテーブルがあり、その中央に湯気を立てる大きな銀のスープ皿が置かれていた。
しかし、部屋に人の気配はまったくない。
主人が不在の食卓というのも奇妙だが、何よりそのスープの香りが鼻をくすぐり、私の理性は麻痺した。
私は導かれるように椅子を引き、銀の匙を手に取る。
皿の中身は乳白色のポタージュで、その表面には小さな花びらが浮かんでいるようにも見えた。
一口、スープを口に運んだ。
喉を通った瞬間、脳裏に雷光のような衝撃が走った。
それは、私自身の記憶ではない、誰かの記憶だった。
春の陽だまりの中で、幼い少女となった自分が母親の手を引いて走っている。
母親の掌の柔らかい感触、新緑の匂い、そして、自分が口にした「早く、早く」と急かす声。
この後、ひどく嫌な出来事が起こると、なぜか私は知っている。
スプーンを持つ手がわずかに震えた。
味や香りが記憶に結びついていることはよくある。これはその体験によく似ていた。
ただし、よみがえるのが、まったく知らない他人の記憶であることを除けば。
これは、いったい誰の……いつの記憶なのだろうか。
私は好奇心にかられてもう一口、スープをすすった。
先ほどの記憶の続きがあらわれるのかと思っていたが、それは違った。
夏の終わりの湿った空気と、遠くで鳴る蝉時雨が脳内にあふれ出る。
「――要するにきみは、僕のもとを去らねばならない」
自分が口にするひどく残酷な言葉。恋の終わりの言葉。
呆然と立ち尽くす少女の顔、そして、心に広がる鈍い憂鬱のきざし。このときはこの少女を疎ましく思っている。
だが数年後、これをひどく後悔することになると自分は知っていた。
私の目から、知らないはずの涙がこぼれ落ち、ハッとする。
危うく他人の記憶と自分の記憶が混同してしまうところだった。
食卓の上のスープは、まるで記憶の澱(おり)を煮詰めたもののように感じられた。
もう一度スープを見つめる。これは様々な人のひどく断片的な記憶を呼び起こす装置なのだろうか。
辺りを見渡す。まるでこの洋館が何かの意図を持って記憶の断片をかき集め、ここを訪れた旅人を混乱に陥れようとしているような恐怖を感じた。
それでも私は、またスプーンを手にしてしまった。
悲しみも、喜びも、後悔も、憧れも、すべてが液体となって私の内側に流れ込んでくる。
それはめくるめく感情の旅路だった。
自分という境界線が溶け出し、世界中の人々の感情と混ざり合うような、不思議な陶酔感に包まれた。
どれほど時間が過ぎたのかはわからない。
やがて、スープ皿の底が見えたとき、私は深い吐息をついた。
目の前の光景が少しずつ揺らぎ、像を結び直していく。
ふと顔を上げると、食堂の壁に飾られた大きな油絵と目が合った。
そこには、かつてこの館に住んでいたらしい、優しげな老夫婦の肖像画が描かれていた。
二人は互いに寄り添い、今にも微笑みかけてきそうなほど鮮明だ。
その時、背後で微かな足音が聞こえた気がした。
振り返ったが、そこには誰もいない。
しかし、テーブルの上に置かれたもう一つのスープ皿が、空っぽになった状態で置かれていることに気づいた。
誰か、私と同じようにこの食卓に迷い込んだ者がいたのだろうか。
あるいは、この館の主が、私と一緒に食事をしていたのかもしれない。
私は立ち上がり、再び森の中へと歩き出した。そして一度だけ振り返る。
朝の光が洋館の全貌を照らし出した。やはり廃墟のようにしか見えない。
私は胸の奥に残る、誰かの記憶の断片を抱きしめながら、日常の世界へと戻った。
次に誰かがこの森で道に迷い、あの食卓にたどり着くその時まで、この不思議な洋館は、ただ静かに新たな記憶を取り込み続けるのだろうか。
私は森を抜ける道を急いだ。
誰かの記憶が、私の人生の一部として静かに溶け込んでいた。


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