いいか、異能バトルというのは派手な火炎や雷撃だけが全てではない。
むしろ現代社会における真の異能者同士の闘争とは、警察に通報されず、SNSに拡散されず、かつ相手の精神を確実に削り取る微細な領域にこそ存在するのだと私は断言したい。
今、平日の午後三時、会社の休憩室という名の戦場で、私と同僚の田中は無言で向かい合っている。
表向きは缶コーヒーを飲みながら休憩しているだけのふたりだが、空間には目に見えない緊張感が漂っていた。
なぜなら、我々は互いに己の持つ異能をフル稼働させ、死闘を繰り広げている最中だからである。
実は同じ会社の同僚というのは仮の姿。私と田中は互いに敵組織の異能者であった。
私の持つ異能は『靴紐解小化』。
これは視界に入っている人間の靴紐を、一分間に約ゼロ点五ミリメートルずつ緩ませるという、神の悪戯ともいえる繊細な力だ。
一方で対峙する田中の能力は『微髪下垂』。
私が息を吸うたびに、私の前髪の毛先を一本だけ、ほんのわずかに目元へと垂らしてくるという陰湿極まりない能力である。
勝敗の条件はシンプルで、どちらが先にうっとうしさに耐えかねて身体を動かし、その場を敗走するかだ。
正直に言って、傍から見たらただ二人で休憩しているだけだ。いや、そもそも仕事しろという話なのだが、男には引けない戦いがある。
「……ふっ、佐藤くん、今日の缶コーヒーは少し苦く感じないか?」
田中が不敵な笑みを浮かべながら語りかけてくるが、私はその発言を完全に無視した。
喋ることで呼吸が乱れれば、私の前髪が垂れ下がるスピードが加速してしまうからだ。
私は意図的に深呼吸を避け、浅く細い呼吸に切り替えることで、田中の能力の威力を最小限に抑え込む策に出た。
田中は私のその完璧な防御姿勢に気づき、わずかに眉をひそめる。
だが甘いぞ田中、私の『靴紐解小化』はすでに開始から二十分が経過しているのだ。
お前の右足のスニーカーの結び目は、すでに限界ギリギリまで弛緩しており、あと一ミリで完全に解ける状態にある。
靴紐が解ければ、お前は立ち上がった瞬間に己の足に引っかかって転倒するか、屈んで結び直さざるを得なくなる。
つまり、私の完全勝利だ。
私は心の中で勝利の雄叫びをあげ、勝利の余韻に浸りかけ――その瞬間、致命的な違和感に襲われた。
左の鼻の奥が、むずむずとする。
まさか、田中、貴様……隠し持っていたというのか、第二の異能を!
「気づいたかい佐藤くん、私は『微髪下垂』だけが取り柄の男ではないのだよ」
田中が眼鏡の奥の目を光らせ、声を出さずに不敵な笑みを浮かべる。
くそっ、こいつの隠し能力は『微塵飛散』、相手の鼻腔内に超微細なホコリを侵入させ、それを静かに感知させる悪魔の能力!
鼻が痒い、絶対にクシャミをしてはいけない。
クシャミを一度でもすれば、勢いよく息を吸い込むことになり、その反動で私の前髪は一気に十ミリ以上垂れ下がり、目に入って自滅する。
絶体絶命の危機の中で、私の脳内CPUは過熱し、超高速で解を弾き出し始めた。
私は鼻の痒みを耐え忍ぶため、上唇と鼻の間を激しく伸縮させる変顔で誤魔化す決断を下した。
人間は鼻の下を極限まで伸ばすと、クシャミの衝動が和らぐという生理現象を利用した極限の防衛策だ。
私の異様な変顔を見た田中が、一瞬だけ動揺して息を呑んだ。
勝機はここだ!
私は残されたすべての集中力を右足の靴紐に注ぎ込み、一気にゼロ点五ミリの緩みを強制発動させた。
ポロリ、と静かな音を立てて、田中の右足の靴紐が完全に解け、床に落ちる。
「なっ……!?」
動揺した田中は、思わず身を乗り出そうとして足を動かし、見事に自分の解けた靴紐を踏みつけた。
ガタン、と大きな音を立てて椅子の脚が鳴り、田中は体勢を崩して机に突っ伏した。
決着だ。
私は鼻の下を伸ばした変顔のまま、心の中で高らかに勝利を宣言した。
その時、休憩室のドアがガラリと開き、上司の部長が入ってきた。
机に突っ伏して頭を抱える田中と、奇妙な変顔のまま微動だにしない私。
「二人とも、疲れているなら早退するか?」
部長は静かに我々を見つめたあと、心から哀れみのこもった声で呟いた。
こうして世界で最も地味で、最も壮絶な異能バトルは、両者とも社会的な死という形で幕を閉じたのである。


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