#648 勇者様の凶悪なるスローライフ

ちいさな物語

みなさんは「スローライフ」にどんなイメージをお持ちでしょうか。

普通はのどかな田舎で自給自足の生活を営み、朝は鳥のさえずりで目覚めてコーヒーをすすり、夜は満天の星空を見上げて静かに眠る。

そういう文明の喧騒から離れた癒やしの時間を想像しますよね、それが一般的な認知のはずなんです。

しかし、私の目の前で今まさに展開されている光景をその常識に当てはめようとすると、脳が秒速で焼き切れて気絶するレベルで事態は深刻を極めているわけですよ。

何が起きているかと言いますと、この辺境の地に、あの魔王を単騎で、しかも肉弾戦だけでミンチに変えて世界を救ったとされる伝説の勇者が、なぜか「今日から俺はここでスローライフを始める!」と供述して隣に引っ越してきたんです。

百歩譲ってそこまではいいとして、私も元魔王軍のしがない事務方として過去の因縁は水に流して穏やかに暮らしたいと思っていましたから、隣人トラブルさえ起きなければ歓迎してもよかったんです。

問題なのは彼の言う「スローライフ」の定義が、我々の知るそれとは根底から乖離しているという一点に尽きるわけです。

まず引っ越してきた初日、家を建てるからと言って彼が取り出したのは、神々が作り出したとされる世界崩壊のトリガーこと聖剣レヴァーディンでした。

その時点で私、嫌な予感がしてたんです。昔取った杵柄とばかりに自宅周辺に強力な防護結界を張りました。

普通は斧で木を切り倒すじゃないですか。彼の場合は「手作業は心が洗われるな」と爽やかな笑顔で宣いながら、聖剣の最大出力を解放して一振りしたんです。

これはとんでもないことですよ。

結果として隣の広大な森林が一瞬でプラズマ化して消滅し、直径五キロメートルの完全な更地と謎の次元の歪みが発生したのですが、彼はそれを「いい風が通るようになった」と満足げに頷いているんですよ。

さらに家を作る材料がないと気づいた彼は、今度は禁忌の暗黒重力魔法を唱え、天から巨大な隕石を引き寄せて目の前に落とし、その衝撃で融解した宇宙鉱石を素手でこね始めて、わずか数分で漆黒の要塞を作り上げました。

どこがスローライフなんですか。これを見た人間は「魔王の再来」と震え上がったことでしょう。テンポ感が完全に世紀末ですし、世界の理が泣いてますよ。

翌日、彼は「やはり自給自足の醍醐味といえば家庭菜園だな」と言って、今度は農業を始めるようでした。

私は恐る恐る物陰から様子を見ていたのですが、彼は硬い地面に向かって、深く息を吸い込むと、なんと拳を叩きつけたんです。

「大地の怒り!」という、かつて魔王領の魔族の王都を地盤沈下で崩壊させた伝説の固有スキルが炸裂し、凄まじい衝撃波とともに地面が爆発して、深さ五十メートルの巨大なクレーターが完成しました。

彼はそのクレーターの底に溜まった地下水を眺めながら、「よし、水はけの良い土壌になった。ここにトマトの種を植えよう」と、ポケットから取り出した種をその深淵に向かって放り投げたんです。

これが仮に発芽したとしても収穫するのに命がけのバンジージャンプを敢行しなければならないことになります。こんな家庭菜園がこの世にあっていいはずがありません。

極めつけは、先ほど彼が「ちょっと小腹が空いたから川で魚でも釣ってくる」と言って出かけていった時のことです。

彼が向かったのは、妖魚がうようよと泳ぐ、この地域でも指折りの危険な激流の川なのですが、彼は釣り竿を家に忘れたことに気づいたんですね。

普通の人間なら取りに帰るか、あるいはその辺の枝で代用するじゃないですか。

しかし彼は「自然と一体になるのがスローライフの真髄だからな」と言い放つと、おもむろに全裸になり、川に向かって超音速の正拳突きを乱打し始めたんです。

激しい衝撃波によって川の水が一滴残らず蒸発し、露出した川底で激しく跳ね回る凶暴な巨大魚たちを、彼は「大漁だ!」と歓喜しながら素手で次々と捕獲していました。

水がなくなった川の下流では生態系が崩壊の危機に瀕しているのですが、彼は「川のせせらぎは心を落ち着かせるな」と、完全に干上がり、妖魚の死骸が連なる川床を見つめて微笑んでいるわけです。

彼の辞書におけるスローライフとは、おそらく「人類が絶滅した後の静寂」のことであり、凶悪な破壊活動のあとに訪れる一瞬の静けさを楽しむという意味に違いありません。そう理解しないと筋が通りません。

私は今、彼が「どうも! お隣さん、おすそ分けです」と言って持ってきた、まだかすかに電撃を放っている謎の魚のソテーを前にして、これを食べたら自分の胃袋が物理的に消滅するのではないかと本気で命の危機を感じています。

しかし、彼は私がそれを口にして「うまい」という瞬間を待ち構えるようにニコニコしながらこちらを見ているのです。

この手記が遺書になるかもしれません。

どうか誰か、彼に本当のスローライフの意味を記した辞書を彼の脳内に直接叩き込んでくれないでしょうか。

今すぐ、ただちにお願いします。

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