#511 側溝の住人

ちいさな物語

最初にそれを見たのは、長雨があがった後の湿気の多い朝だった。

通勤前に家の前を掃いていたら、足元の側溝のフタがガタリと動いた。

猫でも入り込んだのかと思って覗きこむと、そこから人の頭がぬっと出てきた。

「うわっ!」とのけぞった俺に何食わぬ顔で「おはようございます」と挨拶をする男。

年の頃は三十代半ば。黒縁眼鏡に無地のシャツ、見た目はごく普通の会社員。けれど彼が出てきたのは、道路の側溝の中だ。

「……あの、どちらさんですか?」

「隣の下です」

「え?」

「お隣の、下の者です」

そう言って、男はにこやかに会釈し、鞄を持ち直してスタスタと歩いていった。あっけにとられて見送っているうちに、角を曲がって姿が見えなくなる。

妻に話したら、最初は笑っていた。

「また寝ぼけてたんでしょ。夢でも見たんじゃない?」

だが翌朝、彼はまた現れた。

側溝のフタがガタリと開いて、彼が顔を出す。

「おはようございます」

昨日と同じ声、同じ笑顔。違うのはネクタイの色だけだ。

「今日もお仕事ですか?」と聞くと、彼はうなずいた。

「ええ、外回りです。上の方々には、いつもお世話になってます」

上の方々?

「ど、どこにお住まいなんですか」

「すぐ下ですよ。ああ、また夕方には戻りますので」

彼はそう言って去った。

俺はすぐに側溝のフタを外して中を覗いた。真っ暗で、湿った匂い。ただの排水管のはずなのに、奥の方に明かりのようなものが見えた気がした。

数日後、今度は妻もその光景を見たという。

「ほんとに側溝から人が出てきた……」

「だろ?」

俺たちは顔を見合わせた。

彼は朝、「おはようございます」と言い、にこりと笑って去っていく。どこへ行くのかはわからない。

その夜、俺は決心して懐中電灯を持ち、側溝のフタをそっと開けた。妻も気になるらしくついてきた。

湿気っぽい。だがすぐに気づいた。壁の内側に階段がついている。

妻が「やめなよ」と腕を引いたが、好奇心が勝った。妻を地上に残したまま、そこに足を踏み入れる。階段は思ったよりしっかりしていた。

コンクリートではなく、しっかりと固められた土。古風なランプの明かりが点々と続いている。どこまで続くんだと思いながら降りていくと、空間がひらけた。そこには部屋があった。

畳、ちゃぶ台、電球。部屋全体から砂糖菓子のような匂いがする。

通路で扉のないいくつもの別の部屋と繋がっているらしい。

奥の部屋で、数人の女性たちが忙しそうに働いていた。

スーツ姿の人もいれば、エプロン姿の人もいる。みんな、見た目は普通の人間だ。

だが、動きが変だった。

まるで見えない指令に従うように、同じ動作を繰り返す。そして互いにぶつかると、小さく謝ってまた同じルートを歩く。

「すみません、どちら様ですか?」

突然声をかけられた。

あの男だ。

「いや、あの、上に住んでる者ですが」

「ああ、朝お会いする――いつもお世話になっております。人間の顔は見分けがつかなくて、失礼しました」

彼は恭しく頭を下げた。

「ここは……何なんです?」

「地下集合住居です。我々、ヒトアリの」

「ヒトアリ?」

「はい。人間の形をしていますが、どちらかというとアリです。毎日、採取で上の方々のお世話になっています」

「採取って?」

彼はにっこり笑い、壁際の壺を指さした。中には白い粉がぎっしり詰まっていた。

「砂糖です。我々の食料です」

「砂糖? そんなもの、どうやって——」

「上の方々の台所から、少しずつ」

ぞっとした。確かに最近、砂糖の減りが異常に早かった。

「まあ、害はありませんよ。私たちは共生を目指す種族ですから」

彼はそう言い、にこりと笑った。だがその笑顔がどこか、粘つくように感じた。

翌朝、側溝は静まり返っていた。フタを開けても今日は誰もいない。

「夢だったのかな」と思った。しかし、妻も「最近、砂糖の減りが早い」と言っていたので、自分だけの思い違いとは考えられない。

夜、耳を澄ますと、床の下から微かな音がした。何かが下で動いている? まるで、無数の足音のようだ。

それから数週間。俺も妻もすっかり慣れてしまった。砂糖が減ることも、側溝から人が出てくることも……。

あの男は相変わらずに、「行ってきます」と声をかけてくる。床下の音は続いている。時々、玄関に砂糖が落ちている。

お礼のつもりなのだろうが、葉っぱや木の実が落ちていることもある。共生、という言葉が脳裏をよぎった。

昨日、会社の帰りに隣の奥さんに会った。彼女がぽつりと言った。

「最近、うちの床下に小さな穴があってね。砂糖の減りが異様に早くて。アリ……なんだと思うんですけど」

奥さんは何かを探るようにこちらを注視している。さては、あの男を見てしまったんだろう。こちらにも出てくるのか探っているようだ。

「へえ……」

「お宅には出ませんか? アリ」

「うーん、どうでしょう」

俺は笑ってごまかした。

よくわからないので、アリの件にはあまり深入りしたくはなかった。あんな連中が存在することを認めたくなかったのかもしれない。

夜、家に帰ると、リビングの隅に小さな紙切れが置かれていた。

『いつもお砂糖、ありがとうございます。ご協力、感謝します。』

文字は丸くて丁寧で、書き手の几帳面な性格が現れているようだった。

――側溝の男の、あの字だ。その下に、ひとことだけ添えられていた。

『今後ともどうぞよろしくお願いします』

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