#548 闇の中の声

ちいさな物語

今日は少しだけ残業かなと思ったとき、地震が来た。初めはすぐ収まると思った。――が、その瞬間、ビル全体が獣のような音を立ててうねりだす。

照明が一斉に消え、非常灯すら見えない。

気がつくと辺りは真っ暗だった。闇は、思っていたよりも濃い。

自分の手を顔の前にかざしても、まったく見えない。

誰かが悲鳴を上げた気がしたが、すぐに途切れ、嫌な静寂に包まれた。

私は床に座り込み、壁を背にして息を整えようとした。

そのときだった。

「大丈夫ですか」

はっきりとした声が、すぐ近くで聞こえた。

男とも女ともつかない、落ち着いた声だった。職場にいる誰の声でもない。他の会社の人だろうか。

「……はい、生きてはいるようです」

私がそう答えると、声は少し安心したように続けた。

「待って。動かない方が賢明です」

なぜか、その言葉を疑う気になれなかった。暗闇の中だけど、誰かが近くにいる。それだけで、気持ちが少し落ち着いた。

「他にも無事な人はいますか」

「わかりません。でも、あなたは大丈夫そうですね」

その言い方が妙にやさしげで、私は子供のようにうなずいていた。どうせ見えないのだけれど。

揺れが収まってしばらく経っても、暗いまま、救助がくる様子もなかった。時間の感覚が曖昧になり、何分……いや、何時間が経ったのかも分からない。

その間、近くにいるその人の声は途切れなかった。

この地震の話もしたし、昨今の気候のこと、深い海溝の底に何があるのか、火星に移住する計画はうまくいくのか、世界中の神話の共通点など、話はあちこちに飛ぶ。

驚くほどの博識で、私は話に引き込まれていた。知らず知らず、恐怖が薄らいでいた。

「今さらなんですけど、あなたのお名前をうかがってもいいですか」

私がそう聞くと、少し間が空いた。

「……今は、必要ありませんよ」

「今は?」

今こそ名前を呼び合って励まし合うべきだと思うのだが。そう伝えると、少しトーンを落としてこう言った。

「本当のところ、私もあなたも助かるかわかりません。名前を知ってしまえば、情がわきますよ。一緒に助かったら、改めて自己紹介しましょう」

その答えに、なぜか納得してしまった。少しおかしな気もしたが、そのときは確かにそうだと思ったのだ。

助かるかわからない。そう言われても不思議と恐怖はなかった。

「助けは来ますよ」

声はそう断言した。

「必ず来ます」

その言葉を聞いた直後、遠くで金属を叩く音がした。

救助隊の声も聞こえ始める。

私は思わず叫んだ。

「ここです!」

ライトの光が差し込み、闇が割れた。

まぶしさに目を閉じながら、私はすぐに隣を見た――が、そこには誰もいない。

「一人ですか?」

救助隊員がそう聞いた。

「いえ、二人です。さっきまでそこに……」

言葉が途中で止まった。説明できない。事実、そこには誰もいないのだ。

結局、私は一人で救助されたことになった。

後日、ビルの管理会社や救助隊に問い合わせた。自分が発見された場所の近くで救助された人はいないか。いや、近くじゃなくてもいい。ぎりぎり言葉を交わせるくらい離れたところで救助された人は?

返ってきた答えは、すべて同じだった。

「あの現場で救助されたのは、あなた一人だけです」

あの声は、確かに存在していた。自分があの状況でパニックにならずに待てたのもあの人のおかげだ。

救助隊の人にもあわてて動き回ったりしていたら、確実に瓦礫の下敷きでしたよと言われた。動かない方が賢明だと諭してくれたのはあの人だったのだ。

それから長い時間が経ったある日、たまたまあの現場近くを通りかかった。そこにはもう新しいビルが建っている。

風に混じって、かすかな声がした。

「もう、大丈夫ですか」

振り返っても、誰もいない。あの人の声だとすぐに分かった。あれは、人ではなかったのかもしれない。

「ありがとう」

自己紹介は叶わなかった。しかしそこにいた何者かに命を救われた。その事実だけは確かだった。

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