#589 町内会の幽霊

ちいさな物語

その廃屋は、町の北端で静かに朽ち果てていた。

かつては「出る」と噂され、夏休みともなれば肝試しに訪れる子供たちの絶叫が響いたものだが、それも今は昔の話だ。

最近の子供たちはスマートフォンの画面に夢中で、埃っぽい古い家屋を探索するよりも、仮想空間のモンスターを狩る方に忙しいらしい。

主である幽霊、柳さんは退屈と孤独に耐えかねていた。

「最後に人間と話したのはいつだったか。あの時は確か、やんちゃざかりの少年たちが『怖くねぇよ』と騒いでいたのをおどかしてしまった。腰を抜かして、転がりながら逃げていったな……。あれはいい思い出だ」

柳さんは透き通った体でため息をついた。

このままでは、存在そのものが消え、昇天してしまう。

柳さんは一念発起した。

彼はボロボロの着物を整え(と言っても概念的なものだが)、町内会の集会所へと向かった。

その夜、集会所では月例の役員会議が行われていた。

「次は夏祭りの屋台の割り振りですが……」

町内会長の佐藤さんが眼鏡をぐっとあげながら言ったその時、会議室の温度が急激に下がった。

閉まっていたはずの引き戸がカラカラカラと開いていく。

すぅっと生温い風が吹き込んできた。

「あの、どちら様です?」

来客だと思ったらしい役員の一人が引き戸に向かったが、外には誰もいない。

「あれ? 今ここ、勝手に開きましたよね? 誰もいませんけど」

「おかしいなぁ」

他の役員たちもみんな首を傾げる。

「後ろですよ」

ささやくような声が聞こえて、役員たちは一瞬、静まり返った。そして、おそるおそる振り返った。

『ぎゃー!!!』

そこに立っていたのは、足元がうっすらと消えかかった、青白い顔の男だった。

会計の女性が「ひっ」と短い悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。

「お、お化け……!」

「柳と申します」

柳さんは深々と頭を下げた。

「突然の訪問、失礼いたします。実は、本日は折り入ってお願いがありまして。……私を、この町内会に入れていただけないでしょうか。住所は北端の廃屋になりますので、ここの町内会になるとは思うのですが」

佐藤会長は、長年培った公務員時代の冷静さを総動員して応対した。

「……ご入会、ですか? ええと、その……幽霊の方が?」

昨今の社会事情に敏感な佐藤会長は「幽霊」というのが差別用語に当たるかもしれないと、やや小声になった。

「はい。会費も、床下から見つけた古い小判で良ければお支払いします。回覧板も回したいですし、防災訓練にも参加したい。何より、この町の一員として認められたいのです」

さすがに役員たちからは、猛反対の声が上がった。

「怖い」

「お祭り行事は神さんのもんだから、ちょっと縁起が悪くないですかね」

「回覧板を回すって……もし夜道で会ったら、心臓が止まってしまう住民が出そうですよ」

「防災訓練って……もう、その、亡くなった方がですか?」

しかし、柳さんは食い下がった。

「私はこの土地に百年以上住んでいます。夜間に活動するので、不審者を見張ることもできますし、何より町のルールは守ります。今の住民の方々、特に三丁目の田中さんは、先週燃えないゴミの日にヘアアイロンを捨てていましたよ。あれは小型家電回収の日でしょう。それから、他県の不良たちが裏山に心霊スポットがあると言って、真夜中に入り込む問題。近隣のコンビニからはマナーの悪い若者に困っていると――幽霊の私なら彼らを『説得』できるかと」

その発言に、役員たちは顔を見合わせた。

実はこの町、最近ゴミ出しのルールが乱れており、カラスの被害も深刻だったのだ。

それに他県からひっきりなしにやってくる不良たち。SNS上で心霊スポットとして有名になってしまって、ほとほと困り果てていたところだった。

要するに、柳さんの問題意識はかなり的確なもので、それは役員たちの心を動かすには十分だった。

「……分かりました。1ヶ月の試用期間を設けましょう」

佐藤会長の決断により、前代未聞の「幽霊町内会員」が誕生した。

柳さんの働きぶりは完璧だった。

真夜中、彼はゴミ集積所に現れる。

前夜、しかも真夜中にゴミを出す住民は、えてしてルールを破りがちだ。誰も見ていないからだろう。いや、あえて誰も見ていない時間を選んでいるのかもしれない。

その住民の背後にスッと立ち「……分別が違いますよ」と囁く。

これにはどんな住民も震え上がり、「分別を間違えると幽霊に呪われる」と噂になった。そして、真夜中にこっそりルール違反のゴミを出す住民は激減した。

町内清掃の日も、彼は誰よりも早く現れた。――というか、幽霊という性質上、それは夜中だったので、早いというレベルではなかった。前夜だ。

しかし、ひとりで清掃をしようにも、彼の手はホウキをすり抜けてしまう。

柳さんはしょんぼりと肩を落とし、裏山の心霊スポットへ「招かれざる客」の「清掃」に向かった。

ここでは柳さんは無敵だった。どんなイキった不良も柳さんの手にかかればガクガクと震えて逃げ去っていく。

ただ、「本当に幽霊が出る」という噂は、さらなる客を招いてしまい、プラマイゼロといった様相だ。

しかし、コンビニの店員たちは、不良たちが早く帰ってくれるようになったので、たいそう喜んでいる。

心霊スポットに来て、何も起こらないと、彼らはコンビニの駐車場で、いつまでもくだらない会合を開いて帰らないのだから。

しかし、問題は回覧板だった。

廃屋のポストに届けられた回覧板を、柳さんは確認しようとした。しかし、すり抜けてしまう。中も見えないし、次の家にも運べない。

柳さんはここでもしょんぼりと肩を落として、町内会長の夢枕に立った。

「おや、柳さん、どうされました」

佐藤会長は夢の中で事情を聞き、直ちに対応した。

回覧板の内容は個人情報以外、毎回掲示板に貼り出されることになった。

また、回覧板は柳さんの前の人が柳さんの家のポストに入れ、「柳さん、回覧板です」と発声してから、回覧板を引き抜き、その次の家のポストに運ぶという、呪術めいた手順を踏むことになった。

この手順により柳さんは掲示板が更新されたことを知り、また憧れだった「回覧板を回す」ことができる気がするのだという。

柳さんの隣人が親切な人だったので実現したシステムだ。――というのも、その家は例のコンビニの店長の家だったのだ。

夏祭り、防災訓練のいずれも、柳さんは夜間活動で実体がないことが災いして、かなり町内会に負担をかけてしまう結果となった。

柳さんは、廃屋の縁側で肩を落としていた。

「私は、町の人に助けられてばかり……」

彼が消沈して薄くなっていると、佐藤会長が訪ねてきた。

会長は、柳さんのために用意した特別な書類を差し出した。

それは、ラミネート加工された一枚の賞状だった。

「柳さん、あなたにこれを」

そこには『名誉町内会員・特別守護役』と書かれていた。

「あなたは物を運ぶことはできませんが、そこにいてくれるだけで夜間の防犯効果は絶大です。それに、あなたがゴミ出しを監視し始めてから、町は見違えるほど綺麗になった。同じ町の一員として、助け合って暮らしていきましょう」

柳さんの目から、透き通った涙がこぼれ落ちた。

それは地面に触れる前に蒸発し、小さな虹を作った。

「名誉会員……。ありがとうございます。はい、精一杯、やらせていただきます」

それ以来、その町の治安は劇的に向上した。
深夜の公園で騒ぐ若者はどこからともなく聞こえる「……静かにしなさい……」という声に震えて解散し、不法投棄はほぼゼロになった。

悪人は夜に動く。――となれば、柳さんの監視は絶大な効果を生んだ。

実体のない隣人は、今日も誰よりも深く、町を愛している。

物理的な手助けはできなくとも、その冷たくも温かい眼差しは、しっかりと町を包み込んでいるのだ。

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