#634 開かずの納戸

ちいさな物語

次は僕の番ですか。

うーん、信じてもらえないかもしれないんですが、とりあえず話してみますね。

大学生の夏休み、山奥にある母方の祖父母の家へ遊びに行ったときのことです。

大学は楽しいんですが、ちょっと慌ただしすぎて――何もしない時間というか、何もしなくてもいい環境みたいなのが欲しかったんです。

祖父母もすごくやさしいし、何もせず自然に囲まれてのんびりするにはぴったりでした。

僕が家に着くと祖父母は大袈裟なくらい喜んで、もてなしてくれました。

僕は元々おじいちゃん子であり、おばあちゃん子でもあったので、すごくうれしかったです。子供の頃に戻ったような気分でした。

特に祖父は昔から僕のことを特別にかわいがってくれて、山や森に連れて行って自然の中での遊び方を教えてくれたり、古い物語を聞かせてくれたりしました。

でも、その家は築百年を超える古い木造建築で、夜は家全体がきしむ音がします。

都会から離れて過ごすには最適でしたが、あの独特の湿った空気が僕はちょっとだけ苦手でした。

特に、廊下の突き当たりにある、決して開けてはならない古い納戸が、ちょっと不気味でしたね。

僕が子供のときからそこは開かずの納戸で、特にそれを疑問に思ったことはなかったんです。使っていなくて、何らかの事情で開けられないということもあるのかもしれない。

ただ、一連の事件の元凶はこの納戸だったのだと思います。

事件が起きたのは、その家に滞在し始めてから三日目の、蒸し暑い熱帯夜のことです。

寝苦しさに夜中にふと目が覚めました。そして猛烈な喉の渇きを覚えて台所へ向かったのです。

懐中電灯を持ち暗い廊下へ出ると、濃い闇が足元から這い上がってくるようでした。

あ、深夜は家の中でも暗すぎて、懐中電灯を使うのは普通のことだったんです。

一歩進むたびに床板がギィと悲鳴を上げ、自分の心臓の鼓動が大きく耳に響きました。

やっぱり夜の古い家って気味が悪いんですよ。

台所で冷たい麦茶を飲み干し、人心地ついて自分の寝室へ戻ろうとしたときのことです。

長い廊下の奥、あの開かずの納戸の前に誰かがいました。

懐中電灯の光を向けると、そこにいたのは白い割烹着を着た祖母の後ろ姿でした。

祖母は床に深くしゃがみ込み、何かを熱心に雑巾で拭く動作を繰り返しています。

こんな真夜中におかしいと思い、「おばあちゃん、何してるの」と声をかけようとしました。

しかし、言葉が喉の奥で凍りついたのは、祖母の体の異変に気がついたからでした。

祖母は数年前に膝を悪くしており、正座もしゃがむこともできない体だったのです。

それなのに、目の前の影は完全に膝を折り曲げて深く床にかがみ込んでいました。

恐怖で一歩も動けなくなってしまった僕の視線の先で、その祖母がこちらに気づいた様子を見せました。

パキパキと関節の鳴る硬い音が廊下に響き、その首だけがゆっくりとこちらに向かってねじれ始めました。

じわじわと真後ろに回転していく首、いよいよその顔が見えてしまいそうになったその瞬間です。

僕のすぐ横の襖が開き、中から飛び出してきた祖父が僕の目を両手で覆い隠しました。

「見るな! 絶対にそいつの顔を見るんじゃない! あれは婆さんじゃない!」

祖父は老人とは思えないような素早さで僕を部屋へと引き入れてくれました。

そして、その夜はそのまま僕は祖父の部屋で眠ることになったのです。

聞いても祖父は何も答えてくれず、「とりあえず今夜はここで寝なさい」と言うだけでした。

翌朝、居間へ向かうと、祖母はいつもと変わらない笑顔で朝食を作っていました。いつものやさしい祖母でした。

昨夜の出来事は夢だったのかと思いましたが、普段は明るいはずの祖父があまり喋らず、思い詰めたような顔をしています。

朝食の後、祖父は僕を裏庭へ連れ出し、この地域に伝わる恐ろしい秘密を語ってくれました。

この土地には昔から「身内の姿を完全に模して人間を誘い出すナニカ」が出るのだそうです。

そのナニカは村の中で、持ち回りで世話をすることになっていて、どの家もあの開かずの納戸のような小部屋を持っているそうです。

でも、もしもその存在と目を合わせたり、名前を呼ばれて返事をしてしまうと魂を奪われるのだという、そんな話でした。

「そんな昔話みたいなこと――」と、僕は笑いかけましたが、祖父は真剣な顔をしていました。

「今、うちにアレがいるはずがないんだ。たぶんお前はアレに目をつけられてしまった。今回はもう帰りなさい。後は婆さんとなんとかするから」と、祖父は僕を抱きしめました。

僕は祖父の言葉にしたがって、大学の近くに借りていたアパートに帰りました。

祖父があまりにも真剣で、冗談を言っているとは思えなかったからです。それに実際、気味の悪いものを見てしまったわけだから、なおさらです。

でも、本当に怖かったのはこの後でした。

祖父母の家での怖い体験を忘れかけたある夜のことです。

確か、深夜二時を過ぎた頃だったと思います。玄関のドアが激しく揺れる音で目が覚めました。

そうです。揺れていたんですよ、ガタガタって。ノックとかではなく。

恐怖を感じながらもドアへ近づき、小さな覗き穴から外の様子を確認してみたのです。

薄暗い共有廊下の外灯に照らされていたのは、なんと、あの山奥の家にいるはずの祖父でした。

祖父は無表情で何度もドアを揺すりながら、「開けてくれ、開けてくれ」と言います。

祖父なら引き戸と開き戸を間違えるはずがありません。

そのときふと、あの納戸の様子が頭に浮かびました。あの開かずの納戸は引き戸だったんです。

これは絶対に祖父ではない……。

背筋が凍りついた瞬間、ポケットのスマートフォンが静かに震えました。

画面には田舎の母親からのメッセージがあり、そこには信じられない言葉がありました。

「おじいちゃんが朝早くに亡くなりました。すぐに帰ってきて。お通夜に行きます。ゆう君と咲ちゃんには連絡しました」

就職して実家を出ている兄と、僕と同じく大学生の妹の名前です。

再びドアの向こうから激しく揺する音が響きます。

そのあとどうしたのか、実はあまり記憶がないんです。

翌朝、外は静かになっていて、僕はちゃんと実家に帰って、家族で祖父の葬儀に参列しました。

親戚が多く集まっていたので、怖いことはなかったですが、もしかして祖父は僕の身代わりになったんじゃないかって――葬儀の間、ずっと泣きそうでした。

死因は心臓麻痺だと聞いたんですけど、心臓麻痺って、結局は心臓が止まったという結果しか分からない病名ですよね。納得できないですよ、やっぱり。

親や親戚たちはしきりに「歳だからね」と言ってました。

でも、アレから僕を守ろうとして手を引いてくれた祖父の力強さを思い出すと、「歳だから」という理由は違和感しかありません。

祖母を一人にはできないからと、親戚の誰かが都会で一緒に暮らすことにしたようですが、あの家はそのままになっているらしいです。

あの納戸の中、何があったんでしょうか。あの村で世話をしているというナニカって何なんでしょうね。

僕の話はこれで終わりです。

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