#649 森の底で眠る調律の王

ちいさな物語

その森は、厳密にはどの国の領土にも属していないと言われていた。

原生林が何キロメートルにもわたって広がり、航空写真で見てもただの深い緑の絨毯にしか見えない場所。

私は地質調査の専門家として、ある特殊な地殻変動のデータを追ううちに、その未踏の森へと足を踏み入れることになった。

コンパスの針は不規則に円を描き、GPSは完全に沈黙している。

どの国の領土にも属していないどころか、異空間だといわれても納得してしまう。

森の奥へ進むほど、奇妙な感覚が私を捉えた。

風が吹いていないのに、頭上の葉が一斉に、それも決まった周期で規則正しく揺れるのだ。まるで生きているようだ。

ざあ、ざあ、というその音は、まるで巨大な生き物が深い呼吸を繰り返しているかのようにも感じられた。

さらに歩を進めると、足の裏から奇妙な振動が伝わってきた。

ドクン。……ドクン。

それは、大地が脈打っているかのような、低く重い音だった。

私はその音の源を探るべく、草木をかき分け、崖を降り、森の最深部へと向かった。

やがて視界が開け、巨大なすり鉢状の窪地が現れた。

その中心に鎮座していたのは、見たこともない白銀の巨木だった。

樹齢などという概念を超越したその巨木の根元には、人が何人も入れるほどの巨大な空洞が口を開けている。

地を這うような鼓動は、明らかにその内部から響いていた。

私は手持ちのライトを点灯し、恐る恐る空洞の中を覗き込んだ。

ライトの光が照らし出したのは、土や木の根ではなく、豪奢な衣服を纏った一人の男だった。人間よりも二回りほど大きな、異様な体躯をしていた。

金糸で精巧な刺繍が施された、しかし随所が擦り切れて色褪せた、古めかしい外套を羽織っている。頭部には、銀色に光るいばらの冠が乗せられていた。

彼は柔らかな苔のベッドに横たわり、静かに目を閉じ、深い眠りについていた。

彼こそが、この森の、いや、この世界の「王」ではないか。なぜかそんな風に感じた。

王の胸は、ゆっくりと上下していた。

彼が息を吸い込むと、周囲の気圧が変わり、ひんやりとした風が空洞へ吸い込まれてくる。

彼が息を吐き出すと、大地の底からあの重低音の鼓動が響き、地上へと抜けていく。

私はその圧倒的な存在感に気圧され、言葉を失って立ち尽くした。

「あまり近づかない方がいい。彼の眠りは、とても繊細なのだから」

背後から突然かけられた声に、私は飛び上がらんばかりに驚いた。

振り返ると、いつの間にか一人の老人が立っていた。

老人の衣服は麻のような粗末なもので、肌の表面はどことなく、カサカサとした木肌のような質感を帯びていた。

百年、いや何百年も生きた人間がいるなら、きっとこんな姿をしているのだろう。

「あなたは……? この男性は一体誰なのですか」

私が声を潜めて尋ねると、老人は静かに王を見つめながら語り始めた。

「彼はこの世界の調律師であり、『王』だ。何百年、あるいは何千年も前から、こうしてここで眠り続けている」

「眠り続けている? なぜ?」

「世界を維持するためだよ」

老人は、王の脈拍に合わせて小さく頷いた。

「人間は、世界が最初から今の形で存在していると思い込んでいる。重力があり、光があり、時間が一定の速度で進む。秩序ある世界、それが当たり前だとね。だがそれは間違いだ。世界は放っておけば、秩序から少しずつ外れていく。お前たちの科学でいうエントロピーの増大に、少し似ている。それを防いでいるのが、彼のこの眠りなのだ」

老人の説明は、およそ科学を志す私には受け入れがたいものだった。しかし、現に目の前にある不思議な光景が、その言葉に絶対的な説得力を与えていた。

「王の心臓が打つ一拍は、世界の一秒の長さを安定させている。彼の夢が世界に出来事を生み、その眠りのリズムが光の速度を一定に保っている。王が寝返りを打つたびに、どこかで大地が揺れて、地下の歪みによるエネルギーが解放される。何の話をしているのか、もうきみはピンときているのではないかい?」

私は息を呑んだ。少なくとも、今の私の知識では説明できない現象が目の前にある。それらをすべて『王』というひとつの存在に結びつければ、恐ろしいほど辻褄が合った。

「もし、彼が目を覚ましてしまったらどうなるのですか」

私の問いに、老人は初めて私の方を向き、その深く落ちくぼんだ目で私を凝視した。

「夢が終わるのさ。彼が紡いでいる『世界という名の夢』がね。彼がひとたび目を開いた瞬間、光は進むのをやめ、重力は霧散し、時間は意味を失う。私たちが現実と呼んでいるこの精巧なフィクションは、一瞬にして元の混沌へと還るだろう」

老人は、王に触れないよう、優しくその足元の苔を整えた。

「だから、私はここで彼が心地よく眠り続けられるよう、余計な雑音を払い、調律を助けている。きみも、これ以上ここにいてはいけない。きみの放つ心音が、王の精緻なリズムを乱し、世界を終わらせてしまうかもしれないからね」

私はそれ以上、何も言えなかった。

恐怖と、それ以上の畏怖が私の全身を支配していた。私は老人に促されるまま、ゆっくりと後退りし、空洞を後にした。

森を出るまでの道のりは、どうやって歩いたのか覚えていない。

気づけば私は、自分の乗ってきた調査車両の運転席に座っていた。ダッシュボードのデジタル時計は、規則正しく数字を刻んでいた。

街に戻った私は、これまで通りの日常を再開した。しかし、私の世界に対する見え方は一変してしまった。

時計の秒針がチクタクと進むたび、私はあの森の底にいる王の心音を思い出す。

窓の外を通り過ぎる風の音を感じるたび、それは王が穏やかな息を吐き出した瞬間なのだと確信する。

そして、たまに世界がひどく重く、あるいは時間が奇妙に歪んだように感じられるとき、私は恐怖に身を震わせるのだ。

今、あの森の王が、薄気味悪い悪夢を見て、目を覚ましかけているのではないかと。

私たちはみな、たった一人の男が見ている深い夢の中で、かりそめの生を貪っているに過ぎない。

その事実を抱えたまま、私は今日も、王が明日も健やかに眠り続けてくれることを、世界の誰よりも強く祈っている。

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