#652 ペン回し中毒者

ちいさな物語

街から紫煙が消えて、もう四半世紀近くが経つ。

酒場もすっかり姿を消した。酔って路地裏に吐瀉物をぶちまける愚者も、健康寿命という概念の前に完全敗北を喫したのだ。

だが、人間という生き物はどうやら、無意味な中毒から完全に解放されるようには作られていないらしい。

健康を害さず、他人に迷惑をかけず、法にも触れない。そんな完璧な代替行為として社会の隙間に滑り込んできたのは、滑らかな指先の旋回だった。

すなわちペン回し。

かつてあった路地裏の煙草の自販機は、すべてペン回し専用のペンの自販機に置き換わっている。

かつてハイライトやセブンスターが並んでいたガラス窓には、重心のバランスを極限まで突き詰めた筆記具が怪しく光っていた。

「おい、あんた。いい出物があるんだが、見ていかないか」

声をかけてきた男は、ロングコートの内側をサッと開いて見せた。

そこにはズラリと、金属製や特殊樹脂製のペンが仕込まれている。高級煙草を密売していた時代の名残のような光景だった。

「これはドイツの職人が削り出した、重心偏重型のブラスペンだ。指の内側をすべり落ちる感覚が、従来の製品とは段違いだぞ」

男は慣れた手つきでペンを抜き取ると、中指と薬指の間で滑らかに回転させた。

ノーマルと呼ばれる、何の捻りもない基本技から、流れるようなソニック、そしてバックアラウンドへと繋げていく。

ヒュン、ヒュンと、静けさに満ちた路地裏に小さな風切り音が響いた。

その指先の滑らかさ、完璧な重心の維持、そして何よりペンの金属光沢が見せる残像の美しさに、私は息を飲んだ。

「……いくらだ」

「安くしておくよ。前の持ち主は重度の中毒を起こして指を痛め、リハビリテーション科に担ぎ込まれた。これは筋金入りだ。気をつけろよ」

私は提示された金額を疑いもせず払い、重量感を持つそれを受け取った。

オフィスに戻ると、フロア全体に微かなシャカ、シャカという音が充満していた。

かつて禁煙スペースだった休憩室は、今や「スピンゾーン」に指定されている。そこは自分の技を見せたり、ペンを回しながら語らうなどのペン回し専用スペースとなっている。

しかしそこでしかペンを回していけないのかというと、そうではない。実際オフィスでは誰もが片手でペンを回しながらPCの画面に向かっていた。

スピンゾーンではあくまでも、「ペン回しを中心とした休憩」をする場所なのだ。認識としてはオフィスではノーマルや小技を主体とした片手間なのに対して、スピンゾーンでは大技を繰り出してリラックスする。

かつて喫煙室で情報交換をしたり、他部署の人間と繋がりを持ったりした名残が、まだその場所を輝かせていた。
 
会議が始まれば、卓上はさながらペンの回転場だ。

部長が重々しく「今期の売り上げだが」と口を開くと同時に、参加者全員の指先でペンが一斉に旋回を始める。

緊張が高まると、回転速度が上がる。アイデアに行き詰まると、誰かがペンを床に落とし、カランという虚しい音が会議室に響いた。

ペンを落とすことは、かつて煙草の灰をスーツに落とすことと同義の、恥ずべき失態だった。

このように人類の誰もがペン回し中毒の深淵に沈んでいた。

ある者は指のタコを自慢し、ある者は海外製の限定カスタムペンを個人輸入して破産した。

仕事の能率は明らかに落ちていた。何しろ、誰もが片手を完全にペン回しに奪われているのだから。

それでも誰もこれを止めようとはしなかった。煙草や酒は人に迷惑をかけ、健康が損なわれる。ペン回しは迷惑もかからず体にほぼ害がない。適度に中毒を楽しめる。

私は買い取ったブラスペンを指に挟み、ゆっくりと回転を始めた。

ずっしりとした重みが指の関節を押し戻し、遠心力が皮膚を心地よく刺激する。

「はぁー、効くぅ」

頭の中の余計な雑念が、ペンの回転とともに遠のいていくのが分かった。なるほど、これは煙草、酒、あるいは薬物にも匹敵する代替行為だ。

ふと窓の外を見ると、夕暮れの街並みが広がっていた。

街灯の下では、若者たちが集まり、お互いの指先の技を競い合っている。

かつて不良少年たちが煙草を吸い回していた場所で、いまや彼らはインフィニティの回転のキレを自慢し合っているのだ。

人体は害されず、空気も汚れない。完璧で、清廉。少なくとも、我々はそう信じていた。しかし、どこまでも不毛な光景。

「人間ってのは、本当に愚かだな」

私は思わず呟いた。

しかし、指先はブラスペンを止めることができない。滑らかな旋回は止まることなく、夕闇の中で黄金色の円を描き続けていた。

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