今から十年ほど前の話だ。俺は郊外のパチンコ店でバイトをしていたんだ。
あんた、知ってるかな。国道の脇の「ゴールデンラッキー」って店だ。まだあるかわからないけどな。
当時はまだ現在とは違い、玉が筐体から外に出る仕様だった。
だからパチンコ屋のバイトといえば、重たいドル箱を上げ下ろしするという、ある種の肉体労働だったわけだ。
パチンコ店なんて底抜けに明るいイメージがあるかもしれないが、あの店にはいくつかの不気味な噂が囁かれていたんだ。
中でも俺が実際に遭遇したのは、店内のトイレの話だな。
ギャンブル依存で首が回らなくなったヤツが行き詰まって、衝動的にトイレの個室で命を絶つって話、聞いたことないか?
そういうことが実際にあるらしいから、従業員は一時間に一度、トイレ巡回をすることになってたんだ。もちろん清掃も兼ねて、な。
ある秋の週末、午後八時頃に俺は清掃チェックシートを手に男子トイレへ向かった。
一歩入ると、防音ドアのおかげで店内の喧騒が遠くの地鳴りのように変化する。その瞬間、本当に俺はやかましい場所にいたんだなって実感したよ。
とにかく、俺はマニュアル通りにトイレ全体に聞こえるように声をかけたんだ。
「失礼します。清掃に入ります」
まずは全体の汚れを確認する。洗面台の鏡を確認し、三つ並んだ個室の中も見ていく。
手前の二つは空いていたが、一番奥の個室だけが閉まっていた。使用中の表示が赤くなっている。
用を足しているような物音はない。だが、完全に無音というわけでもなかった。
カサ、カサ、と、何かが壁をこするような小さな音がする。
中にいる人の衣服がこすれる音だろう。普通に個室を利用している客だ――そのときは、そう判断して、そこだけ清掃せずにフロアに戻ったんだ。
時間が経過し、午後十一時の閉店直前、最後の見回りも自分が担当することになった。
その頃には使用中だった個室のことなんてすっかり忘れてたよ。次に巡回したバイトが掃除していると思ってるからな。
だけど、男子トイレに入ると、また一番奥の個室だけが閉まったままだった。
しかもまたカサ、カサ、と、何かが壁をこするような音がする。
聞き覚えのある音にぞっとしたよ。まさか先ほどの客がまだ個室内にいるのかってね。
最悪の事態が頭をよぎり、背筋に冷たいものが走った。
俺は深呼吸をして、少し強めにドアをノックする。
「お客様、まもなく閉店のお時間になります」
返答はない。
静まり返った空間で、俺はドアの下の隙間に目を落とした。中に人がいれば靴が見えるはずだろう。
屈んで隙間から中を見てみたんだ――けど、隙間からは何も見えなかった。靴も、足も、衣服の裾も見えない。無人――ということになる。
それなのに、個室の鍵は内側から確実にロックされているし、かすかな物音も続いている。
嫌な想像が頭をよぎった。
中で“何か”がぶら下がっているとしたら――こすれる音もするかもしれないし、床に何もないように見えるかもしれない。
恐怖が限界に達した俺は、インカムで事務所の社員を呼び出した。
「男子トイレの奥の個室がずっと閉まったままで、ちょっと様子が変なんです」
すぐに血相を変えた社員がすっ飛んできたよ。
そして同じように下から個室をのぞき込んで眉をひそめた。
まだカサ、カサという音が続いている。
「お客様、いかがなさいました」
社員もノックするが、やはり返事はない。
「おい、開けるぞ」
社員は非常用のキーを取り出し、外側から鍵を解除した。
ゆっくりとドアが開かれるが、――中に、人間の姿はなかった。
首を吊っているわけでも、倒れているわけでもない。
狭い個室は完全に空っぽだった。
しかし、俺たちはその光景を見て同時に息を呑んだ。
便器の底に、信じられないほどの量のパチンコ玉が詰まっていたのだ。
それだけではない。
白い壁面には、何十本もの指でかきむしったような跡が無数に残されていた。とても一人でやったとは思えない量の跡だった。
カサ、カサという音の正体はこれだったのだろうか。
その瞬間、背中にものすごい悪寒が走ったよ。だって、音はドアを開ける直前までずっと聞こえていたんだからな。
個室の中に何かがいたとしたら、こっちがドアの下からのぞき込んだりしている間にも、それがずっと壁をかきむしっていたことになるだろ。
でも社員は妙に落ち着いていた。
「またか……」
そう呟いて、ため息をつきながらその個室のドアをバタンと閉めた。
「ここはやっておくから、フロアの清掃に行ってくれる? あと、このことは誰にも言わないように。よくあることだから」
そのあと、しばらくは奥の個室は「故障中」という貼り紙がされて使えなくなっていた。それも一週間くらい経ったら貼り紙は外されて、壁もきれいに直されていたんだ。
いや、でも、「よくあることだ」って言われても、そんなのおかしいだろ。
それとなく他の社員やバイトにも聞いてみたけど、結局何もわからなかったな。口止めされてるのか、本当に知らないのか、それすらわからなかったからな。
気持ち悪いし、そこのバイトは辞めちゃったよ。そもそもパチンコ店ってのが、もう怖くなっちまった。
あんなに明るくて、にぎやかで――でもその喧騒が届かないトイレの奥でひっそりと死んじまうヤツもいるんだぜ。考えたらめちゃくちゃ怖いだろ。


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