#612 地獄のゆりかご

ちいさな物語

地獄を見ることができるツアーがあるという、奇妙な噂を耳にした。

普通の旅行代理店で行けるはずもなく、私は人脈を駆使してある男にたどり着いた。

地獄観光ツアーは紹介制で、その参加枠を持っていたのは、臨死体験が豊富だというAさんだった。何度も死にかけているうちに、その界隈の関係者たちと仲良くなったのだとか。

連絡を取ると、Aさんは「地獄かぁ……そんなにおもしろくないよ」と気の抜けた声で言う。あまり気が進まない様子だった。

どうしても見てみたい私は何度も頼み込んだ。

熱意に負けたらしいAさんは、ある夜、私をそのツアーへと連れて行くと約束してくれた。

「本当におもしろくないからね」

行くと決まってもAさんはそれを念押ししてくる。

たとえつまらなかったとしても、人生が変わるような知見が得られると思っていた私は「つまらなくてもかまいませんから」と力強く返した。

確かにそこは、私の想像していた地獄とは似ても似つかない空間だった。

血の池もなければ、猛火に包まれた針の山も見当たらない。

壁も床もぴかぴかで、埃ひとつない。まるで真新しいオフィスのようだった。

「……本当にここが地獄なんですか」と、私は思わず声をひそめて尋ねた。

Aさんは退屈そうに「だから言ったじゃないか」と答えた。

どうやら地獄も時代に合わせてホワイト化され、すっかり洗練されてしまったらしい。

各部屋のドアには「等活地獄」や「黒縄地獄」といったプレートが掲げられていた。

建物は地下深くへ続くようだが、観光では最上階しか見られないらしい。

私たちはガラス張りの大きな部屋の前で足を止めた。

中には、何百人もの人間が等間隔に並んだベッドの上で、静かに横たわっている。

悲鳴も聞こえなければ、苦悶に歪む表情も見当たらない。

「え? 地獄って、ただ寝ているだけなんですか」と、私は拍子抜けしてAさんに問いかけた。

「寝ているだけに見えるけれど、彼らは脳内で絶え間ない責め苦の夢を見せられているんだよ」

Aさんが淡々と解説する。

かつてのように力任せに罪人を痛めつける方法は、とうの昔に廃止されたのだという。

なぜなら、肉体を直接破壊するやり方は、獄卒である鬼たちの職場環境を著しく悪化させるからだ。

人間たちの悲鳴を特等席で聞き続ける鬼たちの精神的ストレスは、看過できないレベルだったらしい。鬼たちの特性上そういったものが平気な者もいたようだが、なにしろ苛烈な肉体労働であることは変わりない。

そのため、すべての責め苦は完全に内在化され、現在のこのシステムに移行したのだ。

部屋の中をよく見ると、スーツを着こなした何人かの人物が、ベッドの間を歩き回っていた。

彼らは白いシャツの襟元を少し緩め、まるで研究者のような知的な顔つきをしている。

ただ一つ異質なのは、彼らの額から、小ぶりで黒い角が生えていることだった。彼らこそが、現代のスタイルに適応した新しい獄卒の鬼たちなのだろう。

鬼たちは手元にタブレット端末を持ち、眠る人々の頭部に取り付けられた電極を細かく調整していた。

電極から伸びる細いコードは、天井の巨大なサーバーへと繋がっている。

一人の鬼がダイヤルを少し回すと、ベッドの上の男が、ほんの一瞬だけピクリと眉をひそめた。

外から見える変化はそれだけだが、その男の脳内では、凄惨な悪夢が再生されているのだ。

「効率的だろう。これなら鬼たちも定時で帰れるし、有給休暇もしっかり消化できる。人間の刑務所なんかも取り入れたらいいんじゃないかと思うけどね」

「鬼のイメージがだいぶ変わりました」

「ちゃんと鬼っぽいところもあるよ」

Aさんはノートに何かを記入している鬼の手元を指した。使っているボールペンは棍棒のようなトゲトゲのデザインだった。絵本なんかで鬼が出てくると持っているやつだ。

「あれさ、隣の土産物屋に売ってるんだよ」

Aさんは皮肉っぽく笑いながら、私を次の通路へと促した。

どこまでも静かで、どこまでも合理的な、血の流れない拷問。私はガラスに額を押し付け、その完璧に管理された光景を見つめ続けた。

鬼たちの一人は、時折コーヒーを口にはこびながら、手元の端末を操作している。

彼らの物腰は驚くほど穏やかで、まるで優秀なシステムエンジニアのようだった。

「さあ、そろそろ帰ろう。退屈で眠くなっちゃうよ」

Aさんは大あくびをしている。

私たちは来た道を戻るようにして、元の暗い路地へと帰還した。

夜風に吹かれながら、私はようやく深く息を吐き出した。

確かにAさんの言う通り、そこは少しもおもしろい場所ではなかった。最新医療施設でも見学してきたような気分だ。

しかし、自分の部屋に戻ってベッドに入ったとき、私はかつてない恐怖に襲われることになった。

これから見るはずの夢が本当に自分の脳が作り出したものだと断言できるだろうか。あのように夢を責め苦に使えるということは、操作が容易だということだ。

それにもし、自分が地獄に堕ちたら、あの無機質な部屋で、ずっと悪夢を見続けることになるというのも恐怖だった。

子供の頃に見た絵本では、たくさんの人たちが同時に責め苦を受けていた。苦しみや痛みを地獄に堕ちた者同士で共有していた。

しかしあの部屋では誰も自分の痛みや苦しみに気づかない。ただ一人で苦痛を叫び続ける。

目を閉じるのが、これほど恐ろしいと感じた夜はなかった。

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