#625 青空の顎

ちいさな物語

かつて、見上げる空は自由の象徴であり、人々に希望を与える存在だった。

しかし今、私たちの頭上に広がる空は、巨大で冷酷な屠殺場へと姿を変えている。

白い綿菓子のように無害だったはずの水滴と氷晶の塊は、ある日を境に、飢えた猛獣へと変貌を遂げた。

空から音もなく急降下し、地上の人間を正確につかみ上空へ連れ去る恐怖の存在。

それが、現代の地球を支配する「雲」の正体だった。

当局の調査によれば、人類が排出し続けた特定の化学微粒子が、大気中の水分と異常な化学反応を起こし、その反応が長年にわたって継続したことが原因らしい。

その環境の中で、とある細菌が異常ともいえる進化を遂げてしまった。それは群体を形成し、雲を操り、捕食行動を取るのだという。

皮肉なことに、人類自身の飽くなき経済活動が、人類自身を捕食する最悪の怪物を生み出してしまったのだ。

今では雲警報が発令されるたび、人々は窓が一切ない頑丈な地下シェルターへと逃げ込む生活を余儀なくされている。

気象予報士の私は、暗い地下の監視室で、ただ複数のカメラ越しに空の動向を見つめるだけの毎日を送っていた。

高感度レーダーに映る巨大な積乱雲は、まるで獲物を探して不気味にうろつく巨大な顎のようだった。

ある日の午後、モニターの端に、避難が遅れたと思われる一人の少女の姿が映し出された。

彼女は誰もいない路上で立ち尽くし、ただ呆然と上空の異変を見上げていた。どうやら家族とはぐれてしまったらしい。きょろきょろと不安げに辺りを見渡している。

上空からは、千切れた巻雲のように見える白い触手が、恐ろしい速度で地上へと降下してきている。

私は慌ててマイクをつかんで叫んだ。

「そこのきみ、早く近くの建物に入りなさい! 食われるぞ!」

私の喉が張り裂けんばかりの声が届いたのか、少女はハッと顔をあげ、間一髪で地下通路の入り口へと飛び込んだ。

その直後、白い霧のような巨大な塊が地面を激しく叩き、何もつかめずに悔しそうに再び空へと巻き上がっていった。

モニター越しにその一連の光景を見ただけで、私は背筋が凍るのを覚えた。

雲は明らかに俊敏になっている。それに以前よりも執拗に人間を狙うようになっていると感じる。

最近は一部の研究者が、雲が知性を持ちはじめたのではないかと言い出していた。

私はそれには懐疑的だったが、ここ最近になって、世界中の観測データに奇妙な変化が現れるようになった。

街から完全に人間が消え、すべての工場が止まったことで、雲の主食である人間と、その雲を変質させた原因物質の供給が激減したのだ。

空を覆う雲たちは今、かつてないほどの激しい飢えと渇きに苦しんでいるようだった。

大気圏を悠々と漂う白い怪物たちは、自らの生存のためにさらなる恐るべき進化を始めていた。

ある朝、メインの監視モニターに映し出された信じがたい光景に、私は我が目を疑った。

レーダーには確かに街を覆い尽くすほどの巨大な雲の反応があるにもかかわらず、光学カメラが捉えているのは、どこまでもうつくしく澄み渡った青空だった。

「これは一体どういうことだ?」

私は首を傾げた。別のシェルターの気象予報士に連絡を取るが、皆一様に不思議がっている。

長く暗い地下に閉じこもることを余儀なくされた人々は、シェルター内の大型モニターに映る青空に心を踊らせた。

「今日は雲がないみたいだ」

「久々に出られるかもしれない」

スピーカーからは、街全体に流れる雲警報が鳴り響いていたが、多くの人は誤作動だと思っていた。何しろモニターには雲ひとつ映っていないのだ。

長すぎる監禁生活によって精神を限界まで蝕まれていた人々にとって、その鮮やかな青色は抗いがたい誘惑に満ちていたことだろう。

「早くシェルターの扉を開けろ。外は信じられないほど晴れているじゃないか」

通信用の無線機から、他の区画にいる住民たちの暴動寸前の狂気じみた声が次々と聞こえてくる。

ガガガ、と鈍い金属音が響き、いくつかの巨大シェルターの重い扉が内側から次々と開放されるのが分かった。

「誰だ! 勝手に開けたやつは!」

私は大慌てでシェルター内の映像を確認しようとしたが、大勢の人々が外へと駆け出していてまったく状況がわからない。

「危険だ! まだ警報が出ている!」

マイクに向かって絶叫するも、立ち止まる人はいなかった。

人々は涙を流し、歓声を上げながら、うつくしい青空の下へと一斉に駆け出していく。

彼らが両手を大きく広げて、眩しい太陽の光を全身に浴びた瞬間、空全体がぐにゃりと不気味に歪んだ。

青い空そのものが巨大な捕食網のように、一斉に猛スピードで地上へと降り注いだのだ。

悲鳴を上げる暇さえなく、数百人もの人間が一度に上空へと吸い上げられ、突如現れた白い霧の中に一瞬で消えていった。

何千メートルも上空にいる人間の悲鳴は聞こえない。バラバラと人だったものの残骸が降り注ぎ、辺りは赤い霧に包まれた。

今まで光学カメラに映らなかった雲が空一面に広がり、その存在を誇示するかのようにうごめいている。

「ぎ、擬態……?」

一瞬にして満腹になった雲は、満足げにゆっくりと去っていった。

皮肉なことに、そこには人々が焦がれてやまなかった青空が広がっていた。だが、もう外に出たいとは思えない。

あとに残されたのは、静まり返った無人の街と、ぽっかりと扉を開いたままのシェルターだけだ。

私は無線機を取り「生存者はどれくらいいる?」と、問いかけた。返答はなかなか返ってこない。ガタガタと機器や書類を動かす音や怒号、通信が不安定なときに生じる雑音ばかり聞こえる。

私は孤独な地下の監視室で、次の襲来に備えてモニターを見つめ直した。

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