山の夜は、すべてを飲み込むほどに深い黒一色だった。
そんな中、私は完全に山の中で道を見失っていた。スマホの画面は暗いままで使い物にならない。
懐中電灯の頼りない光だけが、霧の立ち込める不気味な木々を照らしていた。
雨が激しさを増し、冷たい水滴が容赦なく体温を奪い去っていく。ガタガタと震える体を止めることすらできなかった。
どれほど同じ場所を歩き回っただろうか。突然、足元が大きく崩れた。
私は受け身を取ることもできず、険しい斜面を激しく滑り落ちた。
どこをどう打ったのかもわからない。全身に鋭い痛みが駆け巡り、私は冷たい泥水の中に這いつくばった。立ち上がる気力も失い、このまま凍死するのを待つだけだと絶望した。
その時、濃い霧の向こうから、ゆらりとひとつの人影が現れた。
それは、ひどく色あせた緑色の古い登山ジャケットを着た男だった。
男は泥まみれの私を見下ろすと、何も言わずにただ右手を差し伸べてきた。
弱りきっていた私はその男が何者で、なぜこんなところにいるのかという当たり前の疑問すら浮かばなかった。
しかし、その手を取った瞬間、私はその異様な冷たさに息をのんだ。
男は一言も発することなく、私に背を向けてゆっくりと歩き出した。
私はその背中に置いていかれまいと、必死について行った。
奇妙なことに、男が歩く足元からは、一切の物音が聞こえなかった。
濡れた落ち葉を踏みしめる音も、泥を跳ね上げる音も、何ひとつしない。
ただ静かに、滑るように暗闇の中を進んでいく。
時折、男が振り返るたびに、その顔がぼんやりと浮かび上がった。しかし、帽子の深い影のせいで、その目元はまったく見えなかった。
見えたのは、血の気のまったくない、不自然なほどに真っ白な唇だけだった。
それでも私は、生き延びるためにその不気味な背中を信じるしかなかった。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。前方に道路のガードレールが見えた。
そこは、私が昼間に車を止めた、登山口の駐車場のすぐ近くだった。
「ありがとうございました、助かりました」
私が寒さに震える声でお礼を言ったが、男はすでに黒い山の中へと消えていた。
私は這うように駐車場の一角にある小さな案内所へ向かった。
中へ駆け込むと、初老の管理人が「あんた、あんな雨の中一晩中山にいたのか」と、驚いた顔をした。それから慌てて私をストーブの前に座らせた。
温かいお茶をもらい、喉を潤しながら、私は山での出来事を一気に話した。
親切な男に道を案内してもらい、ここまで戻ることができたのだと。
しかし、私の話を聞くうちに、管理人の顔からみるみる血の気が引いていった。
管理人は震える声で、「その男は、緑色の古い上着を着ていなかったか」と尋ねた。
私がその通りだと答えると、管理人は深く重いため息をついた。
「信じないかもしれないが、それは五年前にあの山で遭難した地元の猟師だ。よく出てくると聞く」
やはり幽霊だったのかと私は身震いしたが、命が助かったのだから、感謝する気持ちの方が強かった。
「幽霊であっても、私の命を救ってくれたことには変わりありません」
しかし、管理人は首を激しく横に振り、私を憐れむように見つめた。
「お前さんは分かっていない。あの山で迷った者は、みんな彼に助けられる。でもね、それは彼が親切心からやっていることではないんだよ」
あの男のひどく白い唇を思い出し、私の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
「彼はね、豪胆な猟師だったけど、実のところひどく寂しがり屋で、一人で死ぬのを何よりも怖がっていた」
「だから今でも、夜の山で道連れを探して彷徨っているのさ」
私はお茶のカップを持つ手ががちがちと震えるのを止められなかった。
「でも、私はこうして無事に下山できました。助けてもらったんです」
管理人は窓の外の黒々とそびえ立つ山の影を見つめながら呟いた。
「彼は腕の立つ猟師だった。獲物を追い込む方法を、誰よりもよく知っている。彼に助けられた人間はみんな、どうしてもあの山へ戻りたくなる。お礼を言わなければいけない、という狂おしいほどの衝動に駆られるらしい。そうして山へ戻った人間は、誰一人として帰ってこないんだよ」
私は恐怖のあまり案内所を飛び出し、自分の車に転がり込んでエンジンをかけた。
バックミラーを見るのが怖くて、ただ前だけを見てアクセルを踏み続けた。
自宅に戻り、鍵をかけ、部屋の明かりをすべて点けても恐怖は消えなかった。
それから三日が経過したが、私は一秒たりとも眠ることができていない。
目を閉じようとすると、あの緑色のジャケットの背中が脳裏から離れない。
そして耳の奥で、カサカサと乾いた不気味な声が絶え間なく囁き続ける。
「お礼を、まだ聞いていないぞ」
私の足は今、自分の意志とは無関係に、ゆっくりと玄関へと歩き出している。
気がつくと、私は靴箱からあの泥だらけの登山靴を取り出していた。
胸の中を、あの山へ戻らなければならないという絶対的な義務感が支配していく。
私は今、車のハンドルを握り、深夜の霧が立ち込める道路をあの山へと向かっている。
バックミラーに映る私の顔は、あの男と同じように、生気を完全に失っていた。



コメント