#586 5秒先の未来

ちいさな物語

駅前の騒がしい居酒屋で、3杯目のハイボールが空いた頃だった。

いつも穏やかで、社内でも「仏の斎藤」と慕われる先輩が、グラスの縁をなぞりながら妙なことを言い出した。

「実はさ、俺、5秒先が見えるんだよね」

酔っ払いの世迷い言だと思った。私は適当に相槌を打ち、枝豆を口に運ぼうとした。そのときだ。

「三秒後、右後ろの席の若者がジョッキを倒すよ」

先輩が淡々と告げた直後、ゴンッという鈍い音が響き、小さな悲鳴があがった。

そちらを見ると、ビールがテーブルに広がり、若者たちがあわてておしぼりを手に取り騒いでいる。やがて店員がかけよって片づけ始めるまで、私は口をあけたまま、それを見ていた。

それから箸を置いて、先輩を見る。

先輩は振り返ることなく手元のメニューを眺めていた。まるで背後で起こっていることを事前に知っていたかのような落ち着きぶりだ。

「今の……偶然ですよね?」

「5秒。たったそれだけ。でも、これがあるだけで人生は驚くほどスムーズになる」

先輩の能力は、世界を救うような大層なものではない。

直前に「この体勢だとコーヒーをこぼすらしい」とか「あの小さな段差でつまずくようだ」といった、日常の些細な不運を予見する程度。

競馬や株で大儲けするには時間が短すぎるし、迫りくる天災から逃げるにも5秒では足りない。

けれど、先輩はこの力をコミュニケーションにおいて最大限に活用していた。

「あ、今の言葉は相手の機嫌を損ねるな」と5秒前に察知し、瞬時に発言を撤回、あるいは修正する。

先輩に失言が一切ないのはそのためだった。彼は常に、最も正解に近い言葉を選び続けていたのだ。人への説明もわかりやすく、プレゼンもうまい。

「羨ましいですよ。それなら人間関係の悩みなんてゼロじゃないですか」

私がそう言うと、先輩はどこか遠くを見るような、ひどく疲れた目で笑った。

「そう思うだろう? でもね、5秒先の未来を書き換えるたびに、俺の中に『書き換えられた残骸』が溜まっていくんだよ」

先輩の話によれば、5秒先の未来は、まるで本当に起こったことのようにリアルに見えて、すべて記憶に残ってしまうらしい。

「それって、現実と5秒後の世界と同時に見えているんですか?」

「説明が難しいな。二重写しのような感じと言ったら想像がつくかな」

わかるような、わからないような……。私がきょとんとしていると、先輩はふっと何かを諦めたように笑った。

「わからないよな。でもいいんだ。――とにかくこの記憶の残骸がひどくてな。最近すごく……疲れるんだよ」

コーヒーをぶちまけて、白いシャツが茶色く染まる様子、余計な一言で相手の顔がこわばっていく様子。

現実には回避したそれらの「存在しないはずの記憶」に混乱させられるのだという。

「最近さ、どっちが現実だったのか、判断がつかなくなってきている」

先輩が4杯目のグラスをあおる。その手は、心なしか震えているように見えた。

「さっき、君が俺に『羨ましい』と言った5秒後、俺の別の視界の中では、君は箸を滑らせて刺身を落とし、醤油を俺のネクタイに飛ばしていた。だから俺は君が刺身に箸を伸ばす前に言葉を続けた。だから現実の君は刺身を落としていない。でも、俺の記憶の中には、申し訳なさそうにして、すっかりおとなしくなってしまった君の顔がはっきりと残っているんだ」

私は自分の箸を握り直した。確かに話が途切れたら、刺身を一切れ食べようと思っていた。先輩の言葉を聞いているうちに、自分の存在がひどく不確かなものに思えてくる。

「なぜ君にこの話をしたか、わかるかい? 実はね――」

先輩はそこで言葉を切り、急に真顔になった。

「……先輩?」

「……逃げられないな」

先輩がぽつりと呟いた。

「何がですか?」

「5秒後に、この店に奇妙な客が入ってくる。この未来は絶対に書き換えられない」

先輩の額に、じわりと汗が浮かぶ。すぐに店の引き戸がガラガラと開く音がした。

「っらっしゃい!」

「ほら、来たよ」

先輩の声が震える。いつも冷静沈着な先輩らしくない。

入口に目をやると、入ってきたのは、ごく普通のサラリーマン風の男だった。灰色のスーツを着て、疲れ果てた様子で空いているカウンター席に座る。

「なんだ……普通の人じゃないですか」

私が安堵して先輩を振り返ると、先輩の顔は紙のように真っ白になっていた。

「君には、あの男が普通に見えるのか?」

「ええ、少し疲れてるみたいですけど」

「俺には……」

先輩はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。

「俺にはアレが……」

男が店員を呼ぶ。その声はやはり普通のサラリーマンだ。

「すみません、生一つ」

「あいよっ」

どう見ても仕事帰りのサラリーマンだ。

「悪い。本当は君に話すべきじゃなかったのかもしれない。俺は世界の分岐を増やしすぎる存在なんだ。たぶんバグなんだよ。俺ひとりなら、起きるエラーはささいなものだ。しかし俺のような人間が世界に大勢いて、デバッガーが常に探しまわっている」

先輩は震える手で財布から一万円札を出し、テーブルに叩きつけた。

「先輩、待ってください!」

私は立ち上がろうとした。しかし、先輩はそれを見越していたかのように、私の肩を強く押し止めた。

「こんな話をしてすまなかった。世界に不要だと言われても、俺がこの世界にいたことを誰かに覚えていてほしかったんだ」

先輩は私の肩をぽんぽんと叩く。

「――いいか。この後、何も知らないふりをして店を出ろ」

そう言い残すと、先輩は店を飛び出していった。

私は呆然とその背中を見送ることしかできなかった。その直後、店員がカウンターの男にビールを運んでいった。

「お待たせしました……ってあれ?」

先ほどまでカウンターにいた、あのごく普通のサラリーマンは忽然と姿を消していた。

私は背筋に凍りつくような悪寒を感じ、先輩に言われた通り素知らぬ顔で会計を済ませ店を出た。

翌日、先輩は会社に来なかった。

無断欠勤など一度もしたことがなかったのに、先輩はそれから二度と姿を見せることはなかった。

警察も動いたが、彼の部屋には争った形跡もなければ、どこかへ出かけた様子もない。ただ彼が前日に着ていたワイシャツと下着が洗濯機の中にぽつんと残されていただけだったという。

私は今でも、誰かと会話をしている最中に、ふと5秒後の自分を想像してしまう。

もし、私がこの一言を飲み込んだとしたら。その「言わなかった言葉」は一体どこへ消えるのだろうか。

あのとき、駅前の居酒屋の引き戸が開く音が、今もときどき耳の奥で鳴るような気がする。

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