鈴木が目を覚ますと、見慣れたはずの天井の染みがいつもより奇妙に黒く歪んで見えた。
「彼は重い体をゆっくりと起こし、昨日からの疲労を引きずりながら深いため息をついた」
誰もいないはずの部屋の中に、落ち着いた低い男性の声が突然響き渡った。
鈴木は驚いてベッドから飛び起き、周囲を見回したが、一人暮らしの狭いアパートには自分以外の誰もいない。
カーテンの隙間から差し込む朝日だけが、変わらない日常の風景を照らしている。
「彼は幻聴だと思い込もうと必死に頭を振り、冷たい水で顔を洗うために洗面所へ向かった」
まるで誰かが書いた小説の朗読のようなその声は、鈴木の行動を先回りして語り始めた。
強い恐怖を感じつつも、声の指示に従うかのように洗面所へ向かってしまう自分に気づく。
鏡に映る自分の顔はひどく青ざめており、目の下には何日も眠っていないような濃いクマができていた。
「彼は朝食をとる気にもなれず、そのまま逃げるように家を出る準備を始めた」
違う、俺は今日、どうしても昨日買っておいた食パンを焼いて食べたいんだ。
鈴木は声に反抗するように食パンをトースターに押し込んだが、スイッチを何度押しても全く反応しない。
コンセントを挿し直しても結果は同じで、まるで見えない力が朝食を拒絶しているようだった。
結局、彼はパンを諦めてシワの寄ったスーツのジャケットを羽織るしかなかった。
外の冷たい空気に触れても、声はさらに鮮明に鈴木の行動と内面を描写し続けた。
「彼は足早に駅へ向かいながら、今日の重要な会議で自分がどんな致命的な失敗をするのか想像して怯えていた」
そんなことは考えていないと心の中で叫ぶが、不思議と強烈な不安が胸の奥底から込み上げてくる。
満員電車に揺られている間も、声は絶え間なく鈴木の惨めな心情や流れる風景を淡々と語り続けた。
周りではなぜか痛いほどの視線が鈴木に集まっている。もしかしてあの声は周りにも聞こえているのだろうか。
会社に着き、デスクに座ると、隣の席の同僚の佐藤が怪訝な顔でこちらをじっと見つめていた。
「鈴木、お前さっきからずっとブツブツと自分の行動を実況してるけど、頭でも打ったのか?」
その言葉に、鈴木は心臓が凍りつくような強烈な衝撃を受け、言葉を失った。
「彼は同僚の指摘によって、声の主が自分自身の口から発せられていることにようやく気がついた」
自分の意志とは完全に無関係に、声帯と口が勝手に動いて三人称で実況を続けているのだ。
鈴木は慌てて両手で口を強く塞いだが、指の隙間からくぐもった声が容赦なく漏れ出し続ける。
「彼は絶望的な表情を浮かべ、周囲の視線から逃げるようにトイレの個室へと駆け込んだ」
思考よりも先に体が勝手に動き、薄暗い個室の鍵を激しい音を立てて閉める。
自分の体が自分のものでなくなっていくような、奇妙で不気味な浮遊感に全身が包まれた。
「彼は冷たい便座に座り込み、この不可解な現象が早く終わるのをただ震えながら祈るしかなかった」
祈ってなどいない、俺はただこの狂った状況から抜け出す方法を必死に考えているだけだ。
病院に行くべきか? 何科だ。精神科なのか?
しかし、頭の中で論理的に考えることすらも、声の圧倒的な描写に少しずつ侵食されていくのがわかる。
「彼の自我は少しずつ薄れ、やがてただの物語の登場人物としての役割を静かに受け入れていく」
やめろ、俺は俺だ、誰かの気まぐれで作られた安っぽいキャラクターなんかじゃない。
鈴木は立ち上がろうと足に力を込めたが、膝がガクガクと震えてどうしても立ち上がれない。
「彼はついに無駄な抵抗を諦め、汚れた天井を見つめて静かに目を閉じた」
まるで強力な麻酔薬を打たれたかのように、鈴木のまぶたが抗えないほど重く落ちていく。
視界が完全に奪われた深い暗闇の中で、自分の口から出る声だけが冷たく響き渡る。
「こうしてこの男の短い物語は唐突に終わりを迎え、世界はすぐに新しい主人公を探し始めた」
個室のドアがゆっくりと開き、外から誰かの足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
鈴木の意識はここで完全に途絶え、二度と現実世界で目を覚ますことはなかった。
次の瞬間、遠く離れた別の街で、新しい無機質な声が響き始めた。
「彼女は混雑する交差点でふと立ち止まり、どんよりと曇った空を見上げた」
609 三人称の侵略
ちいさな物語


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